Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  一九四八年(昭和二十三年)に入ってからの、戸田城聖と、その弟子たちの活発な実践は、確立しつつある組織に、新しい拡大の波紋を投げかけていった。その波紋を真っ先に受け止めたのは、青年男女のグループであった。
 時代の流れは、瞬時の休みもなく、常に新しい息吹を求めていた。日本国内の各界各層では、まだ明治生まれが主流を占めていたが、学会の庭では、大正の末から、昭和生まれの青年たちが頭角を現し、新しい思想によって、新時代を開拓しようとしていた。戸田は、彼らの成長を願っていたのである。
 このころ、彼ら青年の間には、新旧の溝ができつつあった。入会の早い青年たちは、どうしても、活動の重点を、他宗との法論に置きがちであった。他教団の本拠に出向いて法論を挑み、相手の薄弱な教義を叩き、大聖人の仏法の正義を立証する――それは、青年にとって、まことに痛快であり、その中核となっていた一握りの青年は、いつも意気軒昂であったようだ。しかし、入会したばかりの多くの青年には、その感激は伝わらなかった。
 新しい多くの青年たちは、生活は貧しく、何よりも思想に飢え、支えとなるべき人生哲学を、仏法に求めて入会していた。彼らには、先輩たちの他宗との法論闘争は、英雄気取りとも、一種の自己陶酔とも映った。
 そのために、先輩たちと行動を共にしながらも、心では批判し、反発し、いつか青年部の会合から姿を消してしまう人もいたのである。先輩の青年たちは独走し、新しい青年は未熟のままであったといえるかもしれない。
 日を追って、各支部での折伏は活発化し、入会する青年の数は、次第に増大し始めていた。だが、それに比して、青年部員の会合への出席率には、著しい増加は見られなかった。
 戸田城聖は、青年たちの一挙手一投足を、鋭敏に察知し、心を痛めていた。誰が悪いのでもない。いつの間にか、新旧の青年たちの間に、どうしようもない溝が、自然にできてしまったのである。
 初夏に入った六月二十六日は、月例の青年部の座談会の日であった。この日は、珍しく五十余人が参加した。それは、いつもの座談会と違って、新しい構想を語り合う会合だったからであろう。三時間近い話し合いのなかで、堰を切ったように、さまざまな意見が飛び出し、議論は急速に展開した。そして、とうとう、これまでの青年部を解散するという決議にまで突進してしまった。
 むろん、建設的な情熱が、誰の胸にも強く湧いていたことは事実である。彼らは、解散と同時に、新発足の準備委員会を設立し、委員を選出した。
 山本伸一は、この日も身体の具合が悪く、出席していなかった。
 委員となった青年は、今後の基本方針と新組織の構想を述べて、一同に諮った。
 「今、何よりも青年部の飛躍的な成長が、緊急の課題であります。学会の将来を担う、われわれ青年部の活動は、これまでのように、一部の青年の活動に限定されてはならない。今こそ、組織が有機的に、計画的に運営され、入会の新旧を問わず、青年部員の総力をあげて活動し、宗教革命の気概が脈打つ大青年部としようではないか。そして、戸田先生のもとに、栄えある大青年部員として、新たに結集しようではないか。諸君の奮起を促し、新時代の青年部の結成を叫ぶものであります」
 皆、興奮していた。誰もが、胸に漠然と考えていたことが、突然、この夜、一つのかたちとなって出現したのである。
 個人的な自己陶酔や、英雄気取りから脱却して、同志的連帯感に立とう。そして、広い実践活動を展開しなくてはならない。弾力のある、広範な、それでいて強固な組織体としていこう――彼らは、理想の映像を、新青年部に求めたのであった。
 夜は更けていった。やがて、新青年部の運営にあたる委員が、選挙によって選出された。岩田、清原、関、山平、吉川、酒田らの、合計十一人であった。さらに、これら委員のなかから互選で、三人が、常任委員に就任した。そして、結成大会は七月三日と決めた。戸田城聖の出獄の日にちなんだのである。慌ただしい解散と結成であった。
2  戸田は、翌日、彼らから委細を聞いた。しかし、彼らの構想が、戸田のいだく広宣流布への展望と、いかにもかけ離れていることを知ると、硬い表情になった。
 それは、まことに青年部の弱体を物語っていた。彼は、自分と一体となり、直結して、使命感に燃えて進む青年がいないことを、そこに深く感じたのである。
 彼は、一瞬、怒気を含んだ厳しい表情になった。そして、何か言いかけようとして、また口をつぐんでしまったのである。数人の青年幹部は、ヒヤリとして、かしこまってしまった。気詰まりな沈黙が続いた。
 やがて、意外に穏やかな言葉で、戸田は語り始めた。
 「まぁ、一度は、諸君がこうだと思って決めたのだから、責任をもってやりきりなさい。なんでも、やってみなければ、本当のことは理解できないだろう。人間というものは、実に厄介なものだよ。君たちには、今は、わからないだろうが、純粋な教団というものは、決して人工的な組織ではないのだ。御仏意によって出現した教団の組織は、わかりやすく言うならば、われわれが、つくるように見えても、所詮、御仏意によって、つくられていくものだ。
 このことが、今の君たちには、さっぱりわかっていないが、過渡期であればやむを得ない。わからないのに、まっとうなものが、つくれるはずもない。まぁ、思い切ってやってみるがいい。いずれ、学会の組織がどういうものか、どうあるべきか、わかる時がきっと来る。それは、諸君が広宣流布の重大な使命をしみじみと感じ、見事な闘将として成長した時だよ」
 この時、青年たちには、戸田の言っている意味が、よくわからなかった。戸田には、青年たちの組織についての考え方の誤り、偏向を、仏法の根本原理から、指摘することはやさしかった。だが、今は、それよりも、自らの手で組織をつくろうとした、その青年たちの発意を大切にしたかった。
 ただ、彼らが労働組合などの組織を模倣し、それが民主主義に則った組織の在り方であるとする安易さを感じ取っていた。世を挙げて、民主主義を口癖のように叫んでいた時代である。青年たちのこの行動も、当然なこととも考えられる。しかし、戸田の広宣流布という大業に基づく組織論は、彼ら青年たちの理解を、はるかに超えたものであった。
 彼は、青年部の組織が、民主的に運営されることには、異論はなかった。しかし、そのためには、まず一人ひとりが、どこまでも広宣流布の使命に生き抜く、透徹した信仰に立っことが大前提となる。もし、民主主義の多数決原理のみが優先され、広布の戦いのうえで、保身と臆病に満ちた意見が多数を占め、それで進むべき方向が決定されていくならば、学会の組織は、いつか破綻をきたしてしまうことになる。
 日蓮大聖人の仏法の正法正義は、牧口常三郎という一人の仏法指導者の、妥協を許さぬ死身弘法の戦いによって守られた。また、戦後の創価学会の再建も、牧口の遺志を受け継いだ戸田という一人の弟子の、広宣流布への誓いから始まった。広布に一人立つ師子との共戦こそが、学会という仏意仏勅の組織の根幹にほかならない。
 戸田の、この日の謎めいた言葉の意味は、その後の青年部の歩みをたどれば、判然としてくる。彼らは、懸命に活動していったが、学会の活動の原動力には、遂になり得なかった。まさしく「本末究寛して等し」との仏言の通りに、発足当時の偏向は、最後まで広宣流布への鉄の団結を生むことができず、結果的には長く苦しんでしまったのである。戸田の思い描いた真の青年部が誕生するまでには、なお三年余の歳月と、戸田自らの、たゆまぬ訓育が必要であった。
 それはともかく、七月三日には、結成大会が行われた。六十余人の男女青年の結集である。日本正学館の二階は、若々しい情熱があふれでいた。
3  だが、山本伸一の姿は見えない。また発熱のためであろうか。
 まず、戸田城聖の前で、新組織の発表があった。
 当初、十一人の予定だった委員は、十人に決定された。清原かつだけは、戸田理事長の考えから、別の任務のため委員には就任しなかったのである。そして、委員のなかから常任委員三人、会計と庶務に一人ずつが、予定通り就任した。
 戸田は、見かけない新しい青年たちが大勢いるのを見て、にこやかに笑いながら、一人ひとりに温かい視線を送っている。最後に、彼は祝辞を述べたが、いつになく短く、簡素で、「いよいよ青年諸君の奮起を望んでいる」と、力強く結んだ。
 ともかく、青年部は新しく発足したのである。新しい機運が、新しい青年の登場を促したことも否めない。それは、思いがけない方面から、思いがけない青年たちの活動となって現れ始めた。
 たとえば、一カ月後の八月十三日から行われた総本山大石寺での夏季講習会には、東京近県の青年たち、千葉の浦安や、埼玉、群馬などからも、五人、十人と参加してきた。
 皆、初参加の期待に胸をふくらませて、初々しい気持ちでやって来た。彼らは、初めて会った戸田城聖に、この人こそ自分たちが師とするのにふさわしい人物であると感じた。
 山本伸一も、初めて講習会に参加した。だが、彼は、参加してきた青年たちが、お互いに心から打ち解け合うことなく、それぞれ孤独のように見えて、何かしっくりしない雰囲気を感じていた。彼は、丑寅勤行が終わると、何を考えていたのか、ギリシャの詩を静かに口ずさみながら、いつしか眠りに入っていったのである。
  夜はいま
    丑満の
  時はすぎ
    うつろひ行く
  我のみは
    ひとりしねむる

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