Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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群像  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  戸田城聖の人間的魅力は、はなはだ独特なものであった。新しい会員が、ひとたび彼に接すると、たとえ信心のことは何もわからなくても、彼の人間としての魅力に引かれ、終生、忘れ得ぬ感銘を、それぞれいだくのであった。
 彼は、人間操作の技術などを用いたのではない。およそ、その反対であった。無策で、ざっくばらんで、誰であろうと差別をつけなかった。
 世間的な地位の格差など、全く問題ではなかった。仕事がなく、生活苦にあえぐ壮年であろうが、家庭不和に泣く婦人であろうが、それぞれの宿命のもつ悲しさに、彼は誰よりも同情して、わが事として考えるのであった。
 人びとの不幸を黙視することのできない彼は、熱情をもって、彼らに、それぞれの三世にわたる宿命の厳しさを見つめることを教え、御本尊の無量の功力を力強く説いた。そして、信力を奮い起こさせて、絶望のなかから立ち上がらせていったのである。
 この彼の活動を見て、ある人は、あれは戸田の性分であるとか、信者をつくって事業に利用するためだとか、あるいは、好んで人生相談をしているなどと、陰口をたたいていた。
 しかし彼は、それらの悪口など眼中になかった。彼の人間性は、世間的な寛容とか襟度などという概念を、はるかに超えたところに立脚していたからである。
 彼は、接する老若男女に対して、なんの分け隔てもしなかった。誰人であろうと、まさしく一個の人間として、遇していたのである。そこには、虚偽も、欺瞞も、虚飾も、入る隙はまったくなかった。
 彼は、前科何犯であると告白する人の罪は、決して責めなかった。しかし、命をすり減らしての真剣な指導に、虚栄や追従、お世辞や傲慢さで応える者を見る時は、それを許さず、突如、烈火のごとく怒りだす。そして、全精魂をもって、その虚栄と傲慢を叩き出すのであった。不真面目な、ずるい妥協は、絶対にしなかった。
 こうした時の彼の豹変を、人びとは、理解に苦しむことが多かったようである。それは、誰よりも鋭敏に、虚偽をかぎ分ける彼の心の働きを、人びとが容易に気づかなかったからではあるまいか。
 ″こんなことに、なぜ、あんなに怒るのであろうか″と疑問をもった人びとも、後日、叱られた人の身の上に起きた現象を知って、初めて、戸田の怒りは当然であったと納得することが多かった。そして、彼の怒りが、慈愛から発したものであったことを知って、驚くのが常であった。
 彼の振る舞いのさまざまな様相は、まさに仏法に説く「無作」というよりほかになかった。そこには、世間的な通念では律しきれぬものを含んでいたのである。
 多くの人びとにとって、ある時は、最も近寄りがたい戸田城聖であり、ある時は、この世の誰よりも、一切を包容してくれる戸田城聖であった。それは、戸田の心が、その時その時で、目まぐるしく変転したからではない。戸田に接する人びとの心の状態に、戸田は鋭敏に反応したのだ。
 傲慢な心を見るや、戸田の口からは激しい叱責が発せられたし、絶望と悲嘆に暮れる人を見れば、慈愛の言葉で温かくつつんだ。いわば、戸田は鏡であった。
 しかし人びとは、そのことには、少しも気づかなかった。そして、気づかぬばかりか、逆に、彼の″豹変″に、呆気にとられていたのである。
 彼と面識をもった多くの人びとは、その強烈な第一印象を、いつまでも忘れることがなかった。その折、彼らの心に映じた戸田城聖の像は、人生のさまざまな浮沈の時にも、常に色あせることなく、彼の没後、年月を経ても、ますます鮮明さを増して、脳裏に浮かんでくるのであった。
 それは、戸田のもつ独特な魅力の源泉が、全人類の幸福を願う、彼の希有な信心の確信の深さにあり、人びとの心に、それが永遠に生きているからである。
2  東京の下町・小岩方面の新しい入会者を、次々と戸田の前に連れてきたのは、泉田夫妻であった。この夫妻は、小岩の焼け残ったアパートの狭い一室に住んでいた。
 当時は、はなはだしい住宅難で、その深刻さは、悲惨というほかはなかった。屋根さえあれば上等というのが、住居の通念といえた時代でもある。それにしても、彼らの住むアパートは、荒れすぎていたようだ。街の人びとは、″ぼろアパート″の愛称で呼んでいたのである。
 この一室からの唱題の声は、隣近所に、さまざまな物議をかもしたものの、折伏の火の手となっていったことには間違いない。泉田夫妻の歓喜の姿は、たちまちアパートの住人十七世帯のうち、十五世帯までを入会させた。一波が万波を呼ぶように、小岩方面の折伏の展開は、ようやく端緒を開いていった。
 彼ら夫妻は、入会後七年たっていた。戦中戦後を通じて、この七年は、まさに激動の時代であったが、彼らの人生もまた、明日をも知れぬ極度の不安な状態にさらされていた。だが、七年たった時、わが身を振り返ってみれば、まさしく「現当二世」の証拠を、いやでも認めざるを得なかった。二人は、戸田の膝下で、歓喜に燃えて信心に励んでいたのである。
3  泉田弘の前半生の不幸は、二歳の時、母との死別から始まった。伊豆半島の山奥にあった、禅寺の檀家総代の息子であった彼は、祖父母の手で育てられた。婿養子であった父は、弘が成長し、泉田家を継げることを見届け、他家に婿入りした。弘が、二十歳になった時、祖父母も、相次いで他界した。残されたものは、祖父が他人の保証人になったための莫大な借金だけであった。家屋、家財一切が、その返済にあてられ、彼に残ったものは、健康に自信のある肉体だけであった。
 相次ぐ不運は、彼に、一切をあきらめることを教えた。むろん誰もが、過去に人生や社会の矛盾を感じた経験はあろう。その結果、すべてを宿命とあきらめてしまい、ますます不幸になっていく人はあまりにも多いが、泉田の場合は、それが極端であった。
 泉田弘は、軍隊に入った。彼は、忠勇無比の軍人ではなかった。平凡な一下士官にすぎない。どちらかといえば、軍人が嫌いであった。しかし、職業軍人になれば生活には困らない。これといった特技もない泉田は、そのまま職業軍人の道を選ぶしかなかった。いつも演習を嫌った泉田は、憲兵を志願し、憲兵の酷薄さを嫌うと、今度は経理部の仕事に籍を得た。軍人の天下の時代である。性格の問題はともあれ、彼の人生にも、ようやく幸運が微笑みかけてきたように見えた。
 彼は、生活の設計を夢見て、いろいろ考え始めた。そして結婚した。男の子が生まれたが、生後四日で死んでいる。さらに妻の大病と入院生活で、彼の数年の貯蓄は、ことごとく消えていった。間もなく女の子が生まれたが、思いもかけず脳性まひであった。彼は愕然とした。
 当時、彼は親戚から折伏されていたが、神も仏もあるものかと腹を立てていた。世の中は、なるようにしかならぬという彼の人生哲学は、発育が遅れ、笑いもしゃべりもしないわが子を前にして、全く無力であった。
 彼は、勧められるままに、暗澹たる思いで牧口常三郎に会った。
 牧口は、彼の話を聞き、ただ一言、きっぱりと言った。
 「人生、あきらめなくてよいことが、ここに、たった一つだけあるのです」
 泉田弘は、入会した。一九四〇年(昭和十五年)、彼は二十九歳である。その時、既に、彼の頭髪はきれいになくなっていた。帝国陸軍の非衛生的な制帽のせいであったと、彼は笑う。
 彼の入会は、大聖人の仏法の正しさを知ったからではない。わが子のためなら、いいと思うことは、なんでも手を尽くそうと考えたからである。この世の不運にあきらめていた彼は、後悔をしないために入会したのであった。
 以来、牧口の人格にひかれて、たびたび指導を受ける機会を得ていた。病める子は、ほとんど変化がなかった。だが、彼の信心の実践は、大きな飛躍をしていった。
 ″この子が、万一、死ぬようなことになったとしても、俺は断じて退転はすまい″
 入会二年目のことであった。彼が、心からそう決心した時、その子は安らかに息を引き取った。苦悶のない顔であった。不自由だった手足は、鎖を解かれたように、父の手で初めて自由自在に動いたのである。口もとに微笑みさえ浮かべている小さな亡骸なきがらを見た時、泉田弘は、大きな体を震わせて、大粒の涙をこぼしながら言った
 「俺のような業の深い人間を信心させるために、お前は生まれてきたのか。二年も反対した、ろくでなしの俺に、御本尊のなんたるかを教え、この愚かな父を救うために、お前は、小さい体で、今日まで苦しんでくれたのか。ああ、悪かった。ありがとう」
 死んだわが子に頭を下げ、感謝した彼は、心から唱題したのであった。
 ″つい先刻まで、ここに、小さな、かわいいわが子の生命が厳然とあった。いったい、この生命は、死後、どこに、どうなっていくのだろう……″
 彼は、感傷にふけるばかりでなく、真剣に考えるようになった。
 ″この問題が、政治や科学や、教育の分野では解決できないことは、わかっている。人生にとって最大事の、この根本問題を解決していくのは、どうしても哲学以外にはない……″
 彼は、牧口常三郎が、「日蓮大聖人の仏法は、生命を説ききった偉大な哲学である」と言ったことがあるのを思い出した。そして、それを勉強し、実践して、自分なりに結論を出したいと決意を固めた。
 泉田は、わが生涯を振り返った。
 ″そうだ。わかるような気がする。二歳で母と死別したことも、祖父が借金を残して死んだことも、天涯の孤児となったのも、心ならずも職業軍人の道を選ばねばならなくなったことも、二児を失ったことも、俺のような業の深い者には、正法に巡り合うための必須条件であったんだな。……わが子のためにも、御法のお使いを喜んでさせていただこう″
 彼は、この時、妻と共に、ひそかに誓った。もはや愚痴はなかった。四二年(同十七年)九月のことである。

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