Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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渦中  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
1  戸田城聖の日本正学館は、その後も、高進していくインフレの荒波を受けたが、たび重なる困難を克服しつつ、経営されていた。一瞬の油断も許されない。事業の再開以来三年、軌道に乗ったとはいえ、小舟のような企業である。日本経済の動揺の渦中にいつ沈没するか、わからない状態であった。
 彼の事業内容は、目まぐるしく変転した。最初、算数・物象(物理・化学など)・英語の通信教授で、好調なスタートを切った事業も、やがて用紙や印刷代の日ごとの高騰から、半年の予約が終わるころには、赤字になってしまう始末である。予約が成功し、膨大な予約数をかかえながら、それによって、むしろ経営は、苦境に陥るのをどうすることもできなかった。
 彼は、思案をめぐらして、次々に手を打っていった。
 まず、単行本の発刊に切り替えた。短期間に売り上げてしまえば、インフレの余波を避けることができたからである。
 読書人は、それらの新刊書に飛びついていった。活字を懐かしみ、文章に飢えていたのであろう。内容は、二の次であった。ただ、新しい活字によって、精神の飢餓から救われたかったのである。あるいは、戦後の平和の実感を、本によって、かみしめたかったのかもしれない。
 たとえば、一九四七年(昭和二十二年)の七月、哲学者の西田幾多郎の全集第一巻が刊行された時のことである。有名な『善の研究』などを収めたこの哲学書が発売される三日前には、東京・神田の岩波書店には、早くも購入希望者が並び始めた。そして、発売日の前日には、徹夜して買い求めようとする多くの人で、歩道には長蛇の列ができた。
 したがって、本の売れ行きについては、心配はなかった。だが、印刷工場の確保と、用紙の調達は容易ではなかった。なかでも最大の問題点は、用紙の入手であった。紙は、戦時中からの統制物資である。政府機関の許可を得なければ、一枚たりとも買うことができなかった。紙の使用量が、文化の尺度を示すとすれば、これでは、まるで非文化国というほかはない。
 戦時中、出版社は、日本出版会という統制機関に、出版すべき書籍の企画を届け出ることになっていた。その内容に応じて、発行部数が決定されていく。それに必要な用紙が、初めて許可され、製紙会社の紙を印刷工場に回すことができたのである。
 しかし、閣の売買は、警察の目をかすめて、堂々と行われていた。敗戦直後には、軍の隠匿物資であった大量の紙が、巷に流れていった。それが占領軍に押さえられ、種が尽きると、今度は、統制外の仙花紙と称する紙が、流れ始めた。仙花紙は再生紙で、ザラ紙よりも品質が悪い代物だった。だが、ともかく印刷はできたので、各出版社とも、法外在価格で仙花紙の入手に全力をあげていた。
 用紙が確保できさえすれば、すぐに出版業は成立した時代といえる。特権で、軍の放出用紙の倉庫を確保した人たちが、幾つもの出版社を設立したのも、とのころのことである。そのなかには、低俗な内容の出版物も少なくなかった。
 たちまち群小出版社が氾濫し、出版インフレともいうべき現象を呈した。利害をめぐる人間同士の醜い争いが、ここにも顔を見せていたのである。
 紙の確保のために奔走した、ある出版社は、山林を買うことまで始めた。山林を伐採し、良質の木材を、わざわざパルプ材として短く切り、製紙工場に発送する。その数量により、製紙会社は出版社に、用紙をこっそり流したという。なんのことはない、物々交換である。貨幣価値の下落が生んだ、原始経済の再現であった。
2  出版業者として、戸田城聖も、こうした渦中にあった。紙の獲得に奔走したことは確かだが、あがくようなことはなかった。所要の数量は、いざという時、決まって調ったからである。諸天善神を叱咤しながらの戦いは、幾度もあった。
 また、ある時は、数人の仲間の業者を統合して大資本とし、多量な用紙を動かしたりもした。
 それでも彼は、用紙の確保には、不思議なほど守られていたといえる。
 戸田は、『民主主義大講座』の数巻や、英文付きの絵本、数々の大衆小説などを刊行していった。それはそれなりに、一応の成功を収めたが、さらに利潤率を高めようとして、再版を狙うと、おかしなことに、かえって採算がとれないというデータが出た。
 出版社の高率な利益は、再版によることが常識である。だが、この常識が通用しない時代であった。売れ行きのよい本を刊行し、数カ月たって再版しても、既にインフレの高進は、資材、印刷費の高騰をもたらし、同じ定価では赤字となって、採算がとれないという計算である。また数カ月後、定価を改定して再版しても、売れ行きが保証される本は少なかった。
 戸田の事業的手腕をもってしでも、時代の波は、どうしょうもなかった。
 「おかしな話だ。苦心して、やっと発刊し、売れ行き良好で品切れとなる。それで注文がたまる。さて、いよいよ楽しみの再版か、と喜んで準備してみると、採算がとれないという。全くおかしな話だ。
 出版業で再版ができないようでは、陸に上がったカッパじゃないか。本当に、おかしなど時世だよ。これじゃ、どうにもならんじゃないか。面白くない商売だなぁ」
 戸田は、カラカラと笑い飛ばしながら、出入りの業者に、その不満をもらしたりしていた。
 「先生、ひとつ、うまい手を考えてくださいよ」
 多くの業者は、戸田を先生と呼んでいた。
 「そりゃ、考えないわけじゃないが、腹が立っているうちは、いい知恵も出んよ」
 「ハッ、ハッ、ハッ……」
 笑い話に終わったが、戸田は、いつまでも憤懣にとらわれていなかった。
 やがて、冷静な思案の末、雑誌の発刊に踏み切ったのである。
 そのころ、薄っぺらな雑誌は、無数に発刊されていた。また復刊されたものもあった。しかし、営業的に、本格的な企画で出された雑誌を目にすることはなかった。
 戦前の大雑誌は、婦人雑誌にしろ、大衆娯楽雑誌や少年雑誌にしても、大量の用紙使用が不可能であることに対する不安から、誰もその刊行に着手することができず、休刊のままであった。
 戸田は、出版事業が隘路に入るのを、なんとか打破しようと決意した。
 ″雑誌は月刊である。単発の単行本とは違う。事業的にも、その月、その月の資材や経費に対応して、定価を改定すればよい。インフレの波に順応しながら、合理的に価格を決めて刊行できるはずだ″
 彼は、そう結論を出すと、電光石火のスピードで態勢を整えた。まず編集陣の増員である。全般的な再編成は、少人数であるから、すこぶる簡単であった。そして、第一歩として、少年雑誌の『冒険少年』を創刊し、娯楽雑誌『ルビー』の刊行も始めた。
 編集室は、にわかに活発な動きを呈してきた。増員された編集者は、作家や挿絵画家のところへ、飛んで行っては帰り、また飛び出した。
 営業部は、用紙の確保と印刷所との交渉に、油断なく目を配らせていく。さらに、販売ルートの開拓への動きも始まった。
 要するに、彼らは、皆、厳しい時間的制限に追われながら、誰一人として、ぼんやりしていることは許されなくなっていたのである。すべての活動が、ある一つの目的をめざして、一個の生き物のように、有機的に動いていた。
 その有機的な動きの中心にいるのが、戸田城聖であった。彼は、藤イスに泰然としながら、編集者たちを相手に、四方八方に目を配り、督励した。彼の身辺には、活気が満ちていた。
 戸田は、いかなる事業、活動においても、惰性に流されることはなかった。常に知恵を輝かして、全精魂を打ち込んでいった。もし、「長」としての自分の惰性に流されれば、自然に、その一念は社員たちに反映し、なんらかの影響を及ぼさずにはいないと考えたからである。
 戸田の真剣な姿を見て、社員たちも懸命に戦った。その結果、『冒険少年』はすぐに数万部に達し、着実に部数を伸ばしていった。やがて出した『ルビー』の売れ行きも、好調であった。かなりの返本もあったとはいえ、ひとまずインフレ高進による被害を、最小限度に食い止めることができた。
3  この二つの雑誌の発行を主とし、単行本の発行を従に切り替えた戸田の事業は、かなりの収益を上げていたと思われるが、資金繰りは大変であった。
 背後に大資本のバックがなかったためではない。収益が多少とも蓄積されていくと、戸田は、戦前の負債の返済を命じたからである。
 インフレーションは、生産を刺激するための経済政策というのが通説であったが、この急激なインフレは、逆に生産意欲を阻害するにいたっていた。
 獄中にあった二年の留守中に、戸田が経営する全会社は崩れ、大きな負債だけが残った。入獄直前の盛業から見れば、不可解なようであるが、残留幹部の不始末であってみれば、当然のことでもあろう。
 普通は、敗戦のどさくさ紛れから、負債の棚上げ、無期延期の支払い猶予を要求したりして、消滅を図るのが当時の常識であった。しかし、戸田は、当時の金額で、合計二百数十万円の負債を、敗戦直前に、一切、引き受けていたのである。当り前のことではあるが、事業に対する信用と責任を、最も重んじたともいえる。
 敗戦直後、大小の軍需工場は、軍から回されていた多量の資材を、軍用物資払い下げという名目で、自己の会社の資産に振り替えたりしていた。そのうえ、敗戦による軍需補償金までも獲得して、澄ましていた者もいる。
 こうした時世にあって、戸田城聖は、人のよい、真っ正直な事業家であったといえる。彼が、自らつくった負債ではない。国家権力によって、やむなく留守にした間に、部下がつくった負債である。それを彼は、進んで背負ったのだ。
 会計の奥村は、好人物で気のいい男である。その彼でさえ、戸田に向かって、「先生は、人がいいんですね」と悔しがったりしていた。苦労の末の収益を、なんの投資にもならない負債の返済に回すことが、不服なのであろう。
 「先生、あの連中も、ずうずうしいですよ。ずうずうし過ぎませんか」
 あの連中というのは、戦前の債権者たちのことである。戸田が出獄直後に整理した、会社の一片の清算書を盾として、金銭を取り立てに来るのが気に入らないのであろう。
 戸田は、奥村に笑いかけて言った。
 「人が悪いより、よい方がいいじゃないか」
 「それにしても、先生、限度というものがありませんか……」
 会計責任者の奥村は、やり繰りの必要から不満でならなかった。
 「まぁまぁ、そう怒るな。昔の借金が払えるようになったことは、大した境涯の変化じゃないか。あの連中も、昔は金持ちだった。今は、ぼくよりも、彼らの方がひどく困っている。ぼくは牢屋で、ずいぶん、まずい飯を食っていたが、大勢の社員は、彼らの融資のおかげで、ともかく家族ぐるみ、飢え死にもしないで、戦争のさなかを生き長らえることができた。ぼくも、少しは彼らに感謝しているよ。奥村君、君だって、その一人だろう。それが気に食わんかね」
 奥村は唖然として、何も言えなかった。
 「ぼくだって、儲からなけりゃ、払うわけにいかん。また、支払って、こっちの事業がつぶれても困る。おのずと限度があるわけだ。奥村君の仕事は、この限度をよく見極めていくことだ。無理をせず、せいぜい払ってやってくれよ」
 ″なんという先生だろう″と、この会計責任者は思った。
 奥村の戸田への不平は、きれいさっぱりと消えたが、今度は債権者たちに割り切れない不満を、いだき始めた。

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