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日蓮大聖人・池田大作

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車軸  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  一九四七年(昭和二十二年)――。
 この年は、国民にとって、敗戦の惨めさが一段と身に染みた年である。当時を生き抜いた人なら、誰の胸にも、恥も外聞もない最悪の生活に追いまくられた記憶が、まざまざと、よみがえってくるであろう。
 東京・上野の地下道にたむろしている多数の戦災孤児、あちこちの闇市の喧噪、道ゆく人の骨ばった青い顔、うつろな眼――人びとは、皆、利那主義、利己主義に陥り、雄々しい再建の息吹などは、見いだすことはできなかった。
 日本国中どこにも、楽土といえるところはなかった。ただ、闇成金だけが、幅をきかしていた。いかに人心が変わりやすいものであるかを、この時代ほど見せつけられたことはなかったのである。
 食糧の絶対量の不足のために、人びとは動物と変わりない本能を発揮して、その日、その日の食生活を切り抜けるために、血眼になっていた。
 食糧不足の原因には、農産物の不作、引き揚げ者による国内人口の急増、海外からの輸入の途絶などが重なっていた。
 米の作柄もよくなかったが、闇米の流通によって、農家からの供出米を十分に確保できず、麦やジャガイモなどの収穫も、良好ではなかったのである。食糧の配給は、全国的に遅れて、国民は日常的に飢餓状態にあった。
 政府は、食糧不足の打開に苦慮し、三月には供米促進対策要綱を、六月には食糧緊急対策を決定して、食糧の確保に努めた。
 しかし、結局は、占領軍に頼る以外になく、アメリカから、小麦粉、トウモロコシ粉などの援助を受けた。これらが配給されると、誰が考案したのか、手製の電気パン焼き器が流行し、多くの家庭で活用された。
 不足する米の配給を補うために、サツマイモやジャガイモ、果てはサツマイモの茎を粉末にしたものまで、配給量に入れられた。野菜や魚などの配給も、わずかなもので、そうしたものを入れても、一人当たり一日、せいぜい一二〇〇キロカロリー程度である。民衆は、空腹にさいなまれながら生活するしかなかった。
 人びとの間では、今回の太平洋戦争の時、フィリピンで飢餓地獄に陥った人が、人肉を食した話などが、実感をもって思い浮かべられるありさまであった。
 まさしく戦争は、極悪中の極悪である。罪のない国民までを道連れにし、犠牲にしていく戦争を、断じて、この地球上から除かなければならない。
 特に言えることは、戦争を勃発させた指導者は、大人たちであったということである。子どもには罪はない。食べたい盛りの子どもたちのことを思う時、大人は、この悲惨を阻止する責務があると痛感する。
 衣料も同じであった。戦時中に配給されたスフは、すぐ、よれよれになり、下着一枚が、実に貴重であった。フロックコートの上衣にカーキ色の兵隊ズボンの男性、セーターにもんペをはいた下駄履きの女性……。そんな姿で、丸の内の会社に出勤している人もいたのである。
 だが、誰もおかしく思う人はない。思い思いに工夫した服装は、極めて独創的な組み合わせになっていた。この時代くらい、服装というものが、皮肉にも画一化を免れ、気兼ねせずに自由であったことはないであろう。
 しかし、美しいものを着たい、良いものを着たいというのは、若い女性の本能である。また、親たちが、短い青春時代の娘に、せめて美しく着飾らせたいと思うのも、親の情からいって当然であろう。しかし、何一つとして満足させられなかった。
 戦争は、より多く女性が苦しみ、より多く女性が悲しむのである。女性を守るためにも、絶対に戦争は避けなければならぬ。このことは、平和な時にこそ、声を大にして叫ぶべきであった。
 住宅難も、言語に絶した。当時の都会は、戦災や強制疎開で家を失った人や、復員兵、引き揚げ者など、住居のない人で、ひしめき合っていたのである。
 やむなく防空壕の住居や、焼けトタンで作った雨漏りのする家に住み、およそ文明とは懸け離れた暮らしをしている人たちが数多くいた。
 彼らの家では、六畳に老若男女が十人も雑居したり、四畳半に六人もの人が住んでいることも珍しくなかった。
 政府の住宅施策は、これまた、ほとんど皆無であった。増加する人口には、とうてい追いつけず、わずかばかりの応急住宅なども焼け石に水であった。
 人びとは戦争を欲せず、否、戦争を憎んでいたのに、生涯をかけ、尊い汗で築いた家も財産も、灰燼に帰してしまったのである。これほどの落胆も、悲劇もあるまい。この人たちのためにも、断じて戦争はあってはならない。
 交通難にいたっては、まさに地獄そのものであった。通勤電車や列車の満員は、むしろ当たり前のことである。それでも乗れれば、まだよい方だった。真冬になっても、窓にガラスが入らず、板を打ちつけた暗い車両もあった。遠距離の交通には、乗車制限も行われ、会いたい人にも自由に会えず、用事もすべて不便をきたしていた。
 一枚の切符を手に入れるのに、長時間、各駅の窓口に列をつくった。切符を手に入れるまでの時間の方が、乗車時間より、はるかに長い場合もあったのである。
 都会の闇市に行くと、金さえあれば、どんな食糧でも手に入った。地獄の沙汰も金次第ということが、この時代ほど、人びとの心に焼き付いたことはない。しかし、大多数の人びとは、その金そのものがなかったのである。インフレの高進は、貨幣価値を見る見る下落させていった。
 少数の闇成金を除いて、全国の家庭は、毎月、おそるべき赤字を出していた。たとえば、全国消費者米価を見ると、終戦の一九四五年(昭和二十年)を一とすると、わずか二年後の四七年(同二十二年)には、二十五倍以上となっている。さらに一年たつと、六十倍以上にはね上がっている。賃金の値上げがあったといっても、この上昇比率には、とても追いつくものではない。
 各家庭の赤字補填には、やっとの思いで保存してきた衣類や、物品があてられた。つまり、もっぱら売り食いするしか方法がなかった。闇物資を入手しないことには、生命の維持は困難だったからである。社会生活の不安は、募るばかりであった。
 食糧の確保が、日々の生活の最大の問題となり、闇米を、たとえ非合法手段によってでも買わなければ、死ぬよりほかはない。まさに一億総闇屋という時代であった。
 このような時代にあって、法治国として法律を遵奉するのは、国民の義務であるとして、ある真っ正直な教授と裁判官は、自ら闇買いを一切拒否した。その結果、遂に餓死するという事件も起こった。
 その裁判官は、日記にこう書き残している。
 「食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民は絶対にこれに服従せねばならない……自分は平常、ソクラテスが悪法だとは知りつつも、その法律のためにいさぎよく刑に服した精神に敬服している……敢然ヤミと闘って飢死するのだ。自分の日々の生活は全く死の行進であった」
 死の行進は、弾丸の飛ぶ戦場にだけあるのではない。日常の平和であるべき平凡で正直な生活まで、法律を守れば、死の行進となっていたのである。当時の国民生活が、いかに異常なものであったか、その一面を鋭く物語っているといえよう。かろうじて餓死を免れたのは、闇買いという流通機構が、法律の目を掠めて、公然と存在していたからである。
 このような状態のなかで、戸田城聖とその門下生は、講義に通い、各所で座談会を開催し、折伏に飛び歩き、さらには地方指導にも参加した。こうした実践は、極めて至難なことであったにちがいない。どんなに勇気と努力と、はたまた強い信念とを必要としたことであろうか。おそらく今日の時点では、誰も想像できないほどの困難なことであったろう。
2  戸田城聖は、こうした乱世の様相を「立正安国論」を通して、深く洞察していた。そして、大聖人の論じられた七難が、今は逆次に起きていると考えた。
 その七難の最後の二つの大難は、「自界叛逆の難」である。そのうち、最悪の「他国侵逼の難」は、一九四五年(昭和二十年)の八月十五日、未曾有の敗戦と連合軍の進駐とによって、その極点に達したといえよう。そして今、その難は逆次に進んで、「自界叛逆の難」の様相を帯びてきた。自界叛逆とは、内部抗争のことであり、仲間同士の対立である。大きくいえば、国民のなかの絶え間ない争いである。
 ある家庭では、食べ物の恨みから、殺人事件さえ起こしていた。電車の中では、必ず乗客同士が大声でわめき合っている。
 経済界を見ても、各会社は、労資の争いから生産を忘れてストライキで対峙し、互いに骨身を削っていた。
 各政党は、内部紛争を繰り返し、混迷の様相を呈していた。この困難に直面しても、政治家たちは、国民の窮乏をよそに、派閥争いに明け暮れ、政権の座は揺れに揺れ動いていた。
 結局のところ、人びとは互いに信頼を失い、裏切り合うことによってしか、己の生活を確保することができなかったのである。
 さまざまな集団も、例外ではなかった。程度の差とそあれ、自界叛逆の様相が現れ始めていた。既成宗教も、新宗教も、それぞれ内部の紛争が続き、特に新宗教にいたっては、それが分裂して、別の新しい宗教法人を結成していくことになるのである。
 戸田城聖は、思索を重ねていた。
 ″創価学会の前進と建設は、日増しに大事になり、かつ責任を増していく。創価学会の組織は、いかにあるべきか……″
 いろいろな団体の分裂の現象を目撃するごとに、これを周囲の幹部たちに語り始めたのも、このころであった。
 「今の世の中で、いかなる集団でも、『自界叛逆の難』は免れがたい。それには、いろいろ原因もあろう。だが、その根本原因は、正法誹謗にあるのだ。
 この難を免れることのできるのは、おそらく創価学会しかないだろう。理由は簡単だ。正法を奉持している、唯一の団体だからです。正法護持ということが、根幹の車軸となっているからだ。
 したがって、学会という車輪が、いかに巨大になり、遠心力や加速度が加わって、どんなに大きく回転しようと、車軸が堅固であれば、何も心配はない。
 今、ぼくは、この車軸を、ダイヤモンドのように硬く、絶対に壊れない車軸にしようと、一生懸命なんだよ。それには、所詮、強盛な信心しかない。
 さまざまな団体や教団が、派手に動き始めているが、そんなものに目をくれではなりませんぞ。いずれ、みんな行き詰まるか、分裂するかの宿命にある。自界叛逆の難が、避けられる道理がないからだ。分裂は、避けることのできない必然的な宿命だよ。
 学会も、将来、大発展すると、多数の力ある指導者が活躍するようになる。それを見て、外部の連中は、妬みや策略から、『必ず分裂するだろう』『派閥ができた』などと言うだろう。だが、そんなことに紛動される必要は、全くない。あくまでも正法根本、信心第一でいくならば、広宣流布のその日まで、人びとには、とうてい考えられない強い団結と、潤いのある同志愛で進んでいけるんです。
 なんといっても大事なのは、幹部であり、信心だよ。大聖人様から叱られないように、お互いに常に自覚して、ひたすら広宣流布達成に邁進していくことだ」
 幹部たちには、戸田の、あらたまって言う、こうした話が、なぜか不審に思えた。彼らは、″今の創価学会に、分裂などあるはずがない。だいいち、それほど膨大な組織でも決してない。戦時中、壊減状態になったのは、軍部政府の弾圧のためであり、学会の責任でもなければ、内部分裂によるものでもなかったはずだ″と考えていた。
 戸田は、不可解そうな顔をしている、みんなを見ながら、苛立ってきた。
 「君たちは、ぼくが、今、言っていることが、わからんかもしれない。しかし、よく覚えておきなさい。
 もし仮に、創価学会が、根本の使命を忘れ、分裂するような気配が生じたら、即座に解散します。
 毛筋ほどでも、ひびが入ったとしたら、ダイヤモンドの車軸はどうなる。既に車軸としての働きは、全くなくなってしまう。われわれの学会は、車軸そのものが、全然、他の団体とは違うのだ。
 仏法では、団結を破る者を破和合僧といって、五逆罪の一つに数えている。学会は、正法を持った純正唯一の教団であるがゆえに、御金言通りの団結が、必ずできるのです。
 名聞名利を願う幹部や会員が、出てくることもあるかもしれない。しかし、考えがあまりにも低いために、学会の崇高なる大使命がわからず、いつかは行き詰まる。
 また、団結、団結といくら叫んだからといって、それで団結が固くなるものではない。それには、車軸が金剛不壊でなければならぬ。純粋にして強い信心だ。幹部の自覚と、使命感だ。一人ひとりが、自分の力を最大に発揮して、目的のために、強く伸び伸びと前進していけば、おのずから固い団結がなされていくものです。
 そうすれば、この世で恐れるものは何もない。『異体同心なれば万事を成し』だよ。異体とは、各自の境遇であって、自己の個性を最大限に生かす生活。同心とは、信心、そして広宣流布という目的への自覚!――これだ。ぼくをはじめ、全員が、大聖人の御聖訓のままにいくんだよ。これが学会精神だ」
 戸田は、ここで言葉を切って、何かを仰ぎ見るように、顔を上げた。血色のよい頬ではあったが、表情は意外に厳しい。
 「ぼくは、重ねて言っておく。将来の発展のためと、発展してから、その先のことまでを考えてだ。諸君は、幹部として、あくまでも学会の車軸であることを自覚してもらいたい。みんな、一生懸命に信心していると思っているだろうし、事実、そうだと思うが、重大な使命をもっ学会のなかで、自分の使命というものが、何かということを忘れてはなりませんぞ。
 つまり、わかりやすく言えば、ぼくと諸君との間に、毛筋一本でも挟まって、余計な摩擦があれば、学会の車軸は金剛不壊ではなくなるのだ。……ここのところがわかるかな。学会の車軸を堅固にしていくには、皆が、一生涯、今までよりも、さらに堅固な、強い信心を貫いていかなければならない。
 真の団結というものは、人の意志や心がけだけで、できるものではない。御本尊に対する、純粋で強盛な信心を貫き通す時に、その信心の絆で、自然と固い団結ができるのだ。ここが、利害を基にしたほかの団体とは、根本的に違うところだ。
 利害で結ばれた団結は、必ず分裂する。利害以外に、何ものもないのだから。だが、ぼくらの団結には、断じて分裂はない。もし、団結が不可能になったら、それは即壊滅を意味する。
 創価学会というのは、仏意仏勅によって生じた団体なるがゆえに、君たちの想像以上に、すごい団体なのだ。これを見事に回転させ、発展させるのは、車軸である。したがって、金剛不壊の車軸を、どうしても、つくらねばならない時が来ている。諸君は、この立派な車軸の役割を担ってもらいたい。……いいかい、いくらかわかったかな。……わかってくれよ」
3  戸田が異体同心の団結の重要性を語ったのは、西神田の本部で、幹部会が行われたあとのことであった。そして、皆が解散したあと、幹部数人が残って、この話を聞いていたのである。
 語気鋭く語る戸田城聖の声を、幹部たちは、深刻な思いで聞いていた。しかし、考えてもいなかった話なので、戸田の言葉を、心から理解するには、いたらなかった。
 戸田は、「根ふかければ枝しげし」の道理にしたがい、立派な大樹の根をつくることに懸命であった。根が弱く小さければ、決して枝も花も盛んになるわけもなく、永続性のないことを知っていたからである。
 彼はまた、こう考えていた。
 ――誤れる宗教は、教祖だけが悟りを得たように装い、他の信者は、いつまでも無知暗愚として取り扱われているのが常である。信者は、教祖の奴隷に似ている。
 正法は、真実の師弟不二を説き、弟子が師と共に進み、かつ師以上に成長し、社会に貢献していくことを指導する。
 前者は、不合理であり、俗にいう宗教のための宗教、そして企業化した宗教である。後者は、生きるための源泉であり、生活法である。矛盾のない哲学が裏付けとなっている。
 仏教といえば、往々にして高遠で霧に包まれたような、難解なものとされてきた。しかし、正法である妙法の眼を開いて見れば、最も身近な、絶対の幸福確立法であることが、はっきりとわかる。

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