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日蓮大聖人・池田大作

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地涌  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  アメリカ占領軍の日本民主化政策は、次々と断行されていた。一九四七年(昭和二十二年)春には、教育制度の改革が、具体的なかたちとなって現れた。
 いわゆる六・三制の実施である。それまでの義務教育は、国民学校初等科の六年であったが、新たに小学校六年に加えて、新制中学校=一年までを義務教育としたのである。この新制度は、四月一日から実施された。これは教育の機会均等をめざす、民主化の一環でもあった。
 敗戦直後の教育制度の改革の第一歩は、四五年(同二十年)十月二十三日に、GHQ(連合国軍総司令部)が出した、「日本の教育制度の管理についての指令」から始まった。それはまず、教科内容から、軍国主義や天皇制を賛美する部分を排除することであった。
 各学校では、教科書の改訂が追いつかず、児童・生徒自らが、教師の指導で、教科書の不都合な部分を墨を塗って消すという、作業が行われたのである。
 新生日本の教育制度の改革は、翌四六年(同二十一年)三月に来日した、アメリカの教育使節団の報告書を受けて、この年八月、日本側が内閣に設置した教育刷新委員会を中心に、逐次、具体的な検討が進められていた。
 教育使節団の報告書には、教育の地方分権化、文部省の権限縮小など、国家主義的な教育を排除する方向とともに、男女共学による小学校六年、中学校三年、高等学校三年、大学四年という、「六・三・三・四制」の教育制度が提案されていた。
 もとより、六・三制の改革案は、米使節団の提言というより、日本でも長年に及ぶ教育研究の蓄積があり、同使節団に協力した日本側の委員会からの要望に、応じたものでもあった。
 六・三制の実施は、四七年(同二十二年)二月の閣議を経て、四月からの実施が決まった。しかし、予算も十分でなく、中学が義務教育化されたため、全国で教室が不足し、当初は、小学校の教室を借りての二部制、三部制授業や、青空教室まで現れた。教員の不足も深刻であった。
 多くの難問をかかえてのスタートであったが、時を同じく制定された教育基本法とともに、戦後民主主義の教育制度が、一応、ここに、かたちを見たのである。それは戦前の、国家のための教育から、個人の人権を尊重する教育への、大きな転換であったといえよう。
 ともあれ、人をつくることを忘れて、社会の確かな未来はない。教育は、その根幹となるものであるはずだ。
 教育者であった初代会長・牧口常三郎は、未来の宝である「子どもの幸福」こそ、教育の第一義の目的とすべきであると、力説してやまなかった。
 「人間」が「人間」として、自らをつくり上げていく――そのためにこそ、教育はあるはずである。その教育に、社会を挙げて取り組むことこそ肝要であろう。
2  時代は、目まぐるしく移り変わっていた。四月五日には、第一回の知事選挙、および市・区・町・村長の選挙が行われた。七日には労働基準法が、そして、十四日には独占禁止法、十七日には地方自治法が公布されるという、矢継ぎ早な民主化改革が具体化されていった
 人びとの生活は苦しく、物価の上昇は、とどまる気配もなかった。新憲法の施行を前に、四月二十日には、第一回の参議院議員選挙、続いて二十五日には、第二十三回衆議院議員選挙が行われた。
 その結果、衆議院では、社会党百四十三、自由党百三十一、民主党百二十一、国民協同党二十九、共産党四、諸派二十五、無所属十三議席の勢力分野となった。参議院では、社会四十七、自由三十七、民主二十八、国協九、共産四、諸派十三、無所属百十三となり、期せずして社会党が衆参両院で第一党となったのである。生活苦にあえぐ国民は、旧来の保守政治に代わる、新しい政権の誕生に、一種の望みを託したともいえよう。
 しかし、社会党は、第一党とはいうものの、議席数は衆議院の三分の一にも届かず、連立する以外に政権を取ることはできなかった。社会党は、自由、民主、国民協同の各党と連立を組む、政権工作に動いた。だが、自由党は、社会党との連立には加わらず、下野する道を選び、五月三十日、吉田内閣は総辞職した。
 かくして、社・民・国協の三党が連立した社会党首班内閣は、片山哲を総理大臣として、六月一日に成立した。わが国の憲政史上、初めて社会党が政権を担当したのである。
 片山内閣は、深刻化していく経済危機を目前にして、その打開をめざした。まずインフレ対策として、物価は戦前の六十五倍まで、平均賃金は戦前の三十倍以下の月千八百円に抑えるという、庶民にとっては乱暴ともいえる「物価体系」を立てた。そして、吉田内閣の「傾斜生産方式」を踏襲した。
 石炭、鉄鋼などの重要産業に、政府資金と資源を傾斜的に投入し、そこから、生産力の向上を優先的に図ろうというものである。
 だが、石炭の生産量の増加は見られたものの、工業生産全体は伸びず、消費財の生産は、むしろ減少するという、不均衡を生じていったのである。多くの国民の生活は、ますます悪化しかねない状況であった。内閣発足から半年もたたない秋ごろから、再び、労働攻勢は激化していった。
 多党の寄り合い所帯のような片山政権が、激流のなかで必死に舵取りを試みていたものの、各党各派の対立が、その足もとを揺さぶった。
 社会党内閣の目玉ともいえる、炭鉱の国営化問題では、妥協案に対する左派の反目と、民主党の分裂を招いた。さらに、農相の罷免問題をめぐって、それを不服とする社会党の右派が袂を分かった。
 そして、決定的となったのは、公務員臨時給与の財源をめぐる問題であった。党内左派が、鉄道、郵便の公共料金値上げで充当するという政府の方針に反対し、予算案が否決されたのである。
 党内不一致という異常事態に直面して、片山内閣は暗礁に乗り上げ、四八年(同二十三年)二月、発足八ヶ月で、早くも総辞職するにいたったのである。
 片山内閣のあと、三月十日には、民主党の芦田均総裁を首班とする、三党連立内閣が成立した。芦田内閣は、片山内閣の経済政策を踏襲しつつ、一方で、アメリカの対日援助による、日本経済の再建を図ろうとしていくのである。
 政権は交代し、さまざまな政治的変革が重なったが、国民の生活は楽になるどころか、依然、厳しい状況が続いた。「生きる」ということが、言語に絶する苦悩なしにはすまされないことを、誰もが、これほど深刻に考えた時代はなかった。最も切実な食糧事情にも、なかなか改善の兆しは見えなかった。
 食糧の配給も、四七年(同二十三年)には、前年にも増して遅配が慢性化し、全国的に極めてひどくなってきた。たとえば、三月末の遅配日数は、東京十六・六日、神奈川九・三日、大阪六・三日、福岡十一・八日であった。
 それが七月に入ると、東京二十五・八日、北海道九十日と、ますます悪化し、全国平均で二十日の遅れとなった。なかでも、東日本の遅配は深刻であった。
 GHQは、この年の食糧不足分を、米に換算して百五十五万六千トンと予測していた。一億民衆が飢餓線上をさまようなかで、危機を打開しようと、占領軍は食糧を次々と放出した。その放出した総量は、一年で百六十万トンを超えたが、それでも、遅配を取り返すことはできなかった。
3  このような生活を、戸田城聖も、その弟子たちも、免れるわけにはいかなかった。しかし、彼らは、少しもくじけなかったのである。
 彼らは、夜ごと西神田の本部に集まってきた。戸田の講義と、指導を求めて来る人びとのなかには、空腹の人も多かった。服装は、さまざまにチグハグであったし、余裕のある生活をしている人は少なかった。だが、ともかく彼らは、生き生きとしていた。
 彼らは、まず宗教革命によって、この大悪を大善に変えていくのだという、希望に燃えていた。互いに、革命児としての使命を教わり、社会建設の指導者として訓育されたことを、何よりの誇りとして、生き抜いてきたのである。
 人びとが、愚痴と利己主義に落ちている最中に、自分たちは、崇高な使命に生きて活躍しているという、強い自覚によって輝いていた。
 各所の座談会も、徐々に活発になっていった。入会者の新しい顔も、座談会や講義会場に、多く見受けられるようになった。西神田の本部の会合も、時には階段にまであふれることもあった。
 しかし、毎月の入会者数は、十世帯から二十数世帯程度である。
 一九四六年(昭和二十一年)秋に始まった地方指導は、その後も引き続き、一歩も引かず進められていった。折伏の手は、着実に伸びていったのである。群馬、栃木はもちろん、長野県の諏訪、静岡県の伊豆方面、遠く九州の八女辺りまで、幹部が派遣されるようになった。
 派遣幹部には、広布推進への強い使命感があった。彼らが、もし使命に目覚めていなかったならば、苦しい生活の圧力に耐えられなかったかもしれない。だが彼らには、民衆救済のための主義主張があり、崇高な目的観があった。
 戸田城聖に鍛えられた門下生も、その若い力と情熱で、食糧難や物価騰貴に雄々しく打ち勝っていった。彼らは、何よりも折伏の楽しみを知ったのである。これ以上の幸福感はなかった。折伏こそ、人のため、世のため、法のための戦いであり、自己の人間革命への根本的実践であることを、胸中深く体得していったのである。
 彼らは、顔を合わせれば、折伏の話に花を咲かせ、底抜けに明るかった。

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