Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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前哨戦  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  一九四七年(昭和二十二年)三月――。
 東京都心の、とある都電の停留所に、三人の青年たちが集まって、何か小さな声で話し合っていた。
 時折、路面電車の通りを、目を凝らして見たりしている。左右のいずれかの方向に、電車が現れないかと、気を配っている様子であった。
 電車は、なかなか来ない。戦災によって交通機関が被った痛手は、一年半たった今も、まだ回復していなかった。十五分もたつたころ、やっと一台、電車が見えた。古い、ガタガタの電車である。
 日曜日の正午ごろで、車内は、それほど混んではいなかった。十人ほどの乗客を降ろすと、車内はガラガラになった。車掌が紐を引っ張って、チンチンと発車のカネを鳴らすと、電車は、また動きだしていった。
 降りた人びとのなかに、三人の若い男女がいた。笑顔を浮かべ、生き生きとしている。彼らは、素早く、停留所に立っている三人の青年たちの方に走り寄った。
 「こんにちは!」
 「やぁ、こんにちは!」
 待っていた青年たちは、軽く手をあげた。
 集まった六人の青年男女は、あまり口もきかず、そのまま人待ち顔に立っていた。
 やがて、一人の女性が、不安そうに話しかけた。
 「岩田さん、どうしたんでしょ。ずいぶん遅いわね」
 「いや、来るよ。あれだけ念を押してあるんだから、今日は、必ず来るさ。どっかで、電車が故障でもしているんだろう」
 別の青年が答えた。
 「でも、滝本さん。もう十三時四十分よ」
 「三川さんは、相変わらずせっかちだな」
 滝本欣也は、メガネをかけた、痩せた背の高い青年である。彼は、小柄な三川英子という女性を、見下ろすようにして言うのであった。
 彼らは、次の電車を待った。だが、なかなか来そうにもなかった。
 冬は過ぎ、急に春めいてきた三月下旬の真っ昼間である。春の光が、全身を温めてくれる。寒かったこの冬、オーバーもないままに過ごした厳寒の記憶など、若い彼らの頭からは、とっくに消え去っていた。
 彼らの心は、なんとなく弾んでいた。しかし、どの目も、いささか鋭い光を放っていた。彼らには、秘められた、ある計画があったからである。
 電車が遠くに見えた。彼らの目は期待を込めて、一斉にそれを見つめた。停留所に電車が止まり、どやどやと大勢の乗客が降りてきた。ほとんど空になった電車は、のろのろと過ぎていった。
 降りた乗客のなかに、岩田重一の姿はなかった。
 待っていた青年たちに、失望の色が浮かんだ。彼らは、顔を見合わせた。
 「岩田さん、どうしたのかな」
 まだ少年の面影が残る、いちばん年少者の吉川雄助が言った。滝本が時計を見た。もう一時を過ぎている。彼らは、また互いに顔を見合わせた。滝本が首をかしげながら言った。
 「こりゃいかん。おかしいな……しかし、絶対来るよ。同志を裏切るなんて考えられん」
 「滝本さんの確信、私、当てにしないわ」
 三川は、ちょっと口をとがらせて、ジリジリしながら、不平顔である。
 六人は、輪になって、相談を始めた。
 もう一台だけ電車を待つという意見、いや先に行ってしまおうと言う者、岩田が来ないと、今日の作戦は変更しなければならない――と、案じ顔に言う者もあった。しかし、誰一人、解散しようと言う者はなかった。
 「では、ぼくだけ、ここで岩田を待って、後から行くから、みんな先に行っていたらいいじゃないか」
 おとなしそうな酒田義一の、穏当な提案である。
 「そうしようか……」
 滝本が言って、衆議落着しようとした時、高い声をあげた。
 「あっ、岩田さんだ!」
 岩田は、忽然として、思いがけない方向から現れた。電車ではなかった。彼はのっし、のっしと歩いて、六人に近寄ってきた。太りぎみの岩田は、坂道を上ってきたので、息を弾ませていた。
 「よう、みんな来ていたのか!」
 「来ていたのかじゃないわよ。ずいぶん待たせるのね。岩田さん、何時だと思っているの?」
 三川は、一度に憤懣を爆発させて、岩田を責めた。
 「もう何時だい? ええっ、一時過ぎている? 俺は時計を持っていないんだ。こういう時には困るよ」
 彼は、太い首を縮めて言った。若者たちは、どっと笑い声をあげた。
 「心配するな。今、ちゃんと先に、偵察をしてきたところだ。今日は、大勢、来ているぞ。下足箱の履物の数を見ると、まず百五十人から、二百人というところだ」
 岩田の太い声は、いかにも力強く響いた。彼が中心者なのである。六人は緊張し、さっと硬い表情になった。
 彼らは、めざす方向へ動きだした。岩田は、ふと立ち止まって、もう一度、念を押した。
 「今日は、いよいよ彼らの息の根を止めてやる日だ。しっかりやろうぜ。昨夜打ち合わせた通りだ。わかっているな。
 ……そろって行つてはまずい。ここから、一人ひとり別々に行くんだ。知らん顔して入るんだよ。
 じゃ、俺が先に行くから。みんなバラバラになって来るんだよ」
 「わかっている。わかっている」
 皆は、口々に言いながら頷いた。
 七人は、春の日光をいっぱいに浴びながら、適当な間隔をおいて、通行人に紛れて足を運んだ。極端な衣料不足のため、彼らの服装はまちまちで、くたびれていたが、男性は、皆、髭をさっぱり剃っていた。血色のいい顔を輝かせている。女性たちは、髪をきれいにセットして、すがすがしかった。
 人びとが、三々五々に吸い込まれていく、その建物の前に来ると、岩田は、すばしこい動作で、中に入った。
 そこは、多くの信者を集めていた、新宗教の教団本部であった。
2  この教団の教祖は、仏教であろうと、キリスト教であろうと、神道であろうと、その教えのなかから、人びとに好まれそうな言葉を引用し、継ぎ合わせ、もっともらしい教義を説いていた。
 ――世間には、さまざまな宗派があるが、その説く真理は同じである。釈迦も、キリストも、その教えは、究極では一つの真理に帰する。わが教団は、その究極の真理を説いている。わが教団の信仰をすれば、各派の真髄もよくわかってくるし、また、生命の真理を知ることもでき、すべての人は必ず幸福になる。すべては心の問題である。だから、生命の真理を知るためには、教祖の著書を読めばいい。たとえ読まなくても、ポケットに入れておくだけで、不幸から脱出した人もいる……。
 およそ子どもだましの言い分である。
 だが、宗教の高低浅深を判断する基準をもたない多くの人びとは、ただ釈尊や、キリストの言葉が出てくるだけで、感心してしまうのである。
 教祖の著書や、雑誌を読めば、幸福生活は実現し、肉体も健康になるというスローガンは、人びとにとって、実に簡便で入りやすい印象を与えた。
 軽い関心から、迷える人びとは、耳を傾けていった。そして、信者になり、出版物の確実な購買者となった。教団の活動目的は、出版物購読者の拡大にあったといえよう。それが、この教団の実態であった。
 したがって、その目的遂行のためには、時流に乗る必要があった。戦時中、軍部の天下となると、軍閥から人を呼んで、教団の理事長にすえたりした。
 そして中国大陸にも、彼らを利用して、教勢拡大とともに、販売網を広げるチャンスをつかんだ。つまり、極端な国家主義思想を掲げて、戦争に協力したのである。
 この教団の教義は、まことに都合よくできていた。仏教も、キリスト教も、神道も、ゴチャ混ぜであるから、時に応じて、必要な神道の文句を引き出し、軍人たちのご機嫌を取った。多くの教団のなかで、これほど徹底して戦争に協力したところもなかった。
 終戦後は、その反動として、非難が集中したのも当然である。しばらく教勢は衰えていたが、同時に、険悪な世相は、一億の不幸な民衆を生んでいた。それらの苦悩に迷い抜いている人びとに、今度は、釈尊やキリストの、もっともらしい言葉を聞かせ始めたのである。
 人びとにとって、読書という単純で手っ取り早い修行は、確かに好都合であった。いや、むしろ、それが魅力でもあった。
 こうして一九四六年(昭和二十一年)ごろから、教団は、またも活発に活動し始めていたのである。
 戦争協力への反省はまったくなかった。
 確かに、民衆の心の機微を一応は突いたかに見える。だが、その教義は、あまりにも無責任な放言の累積といっても、過言ではなかった。あえて言えば、キリスト教に帰依させる指導なら、まだ純粋さがある。釈尊を本尊として、すべての宗教を帰一させようというのなら、まだ幾分の道理がある。しかし、それらの金言を部分的に取り入れ、我流仕立ての教義をつくり、それを本にして販売するというのは、聖賢の心を踏みにじる行為ではないか。
 また、真実の生命の法則を歪めた、継ぎはぎだらけの教義は、信じた人びとを不幸に陥れる働きをするものである。
 創価学会の座談会にも、この教団の信者が、ちらほら参加し始めていた。彼らを折伏しているうちに、教団の本部では、かなり活発な会合が開かれていることがわかった。
 学会の青年たちは、二人三人と連れ立って、教団の本部の会合に参加し、その教義が、あまりにもでたらめであることを知った。青年たちの正義感は、それを許せなかった。
 彼らは、教団の本部に行き、鋭い質問を浴びせたりした。だが、質問をはぐらかされ、さっぱり手応えらしいものはなかった。学会の青年たちは、いつか、いきり立っていた。
 岩田たち七人は、今日こそ、決着をつけてやろうと作戦を立て、意気軒昂として、教団本部の会合に臨んだのである。
 青年たちは、かなりの確信をもち始めていた。日蓮大聖人の厳正な教義を、全身の熱情を込めて説き教える戸田城聖の講義が、若い彼らにとって、宗教の真実を見極めるための、貴い光明となっていたのである。
 当時は、交通も不便であった。電車は殺人的な混雑であった。そのなかを、青年たちは、遠隔地からも、せっせと夜ごとに講義の会場に通って来た。
 皆、苦しい生活である。だが、食事を抜いても、交通費だけは、なんとか握ってきた人が多かった。戸田は、定期券を買ってあげたいと言ったくらいである。
 青年たちにとっては、それほどまでに真剣に、思い詰めて参加した講義であった。したがって、戸田の一言一言は、栄養のように、青年たちの頭脳に吸収されていった
 しかし、彼らは、初めのうちは、それを自覚していなかった。たまたま知人や友人を折伏した時、彼らの言説に、その友人や知人たちが驚き、感嘆する顔を見て、初めて自分たちの急速な生長を感ずるのであった。
 そして、その深く強い確信に満ちた理論は、実は、前夜、戸田から聞いた話で、それをそっくりそのまま話していたことに、ふと気づくのであった。
 ある友人は言った。
 「君の勉強している先生に、一度、会わせてくれたまえ。その先生から、もっと聞きたい。私は知りたいことがある。……どうだろう」
 ある知人も言った。
 「言わんとすることはわかる。話に筋が通つてはいる。だが、もう少し、穏やかに話してもいいじゃないか。あんたの先生に会ってみたいと思う……」
3  学会の青年たちは、宗教の高低浅深、学会の使命、日本の将来を救済しようとする戸田の理念を、情熱込めて語り合い、夜半に及ぶことも、しばしばであった。
 青年たちが、もっと驚いたことがある。それは、既成宗教の僧侶や幹部に、個人的に会って折伏すると、宗教に関して専門家であるべき彼らが、宗教や、その教義、哲学については、まったく理解していないということであった。
 まだ、信心してから日の浅い青年たちの一言に、ぐうの音も出なくなって、沈黙してしまう姿、あるいは、急に血相を変えて食ってかかり、居丈高な態度に一変することであった。
 既成仏教は、まさしく形骸を残すのみとなっていた。それに対し、新宗教のなかには、金儲けに狂奔する教団も少なくなかった。このような姿を、大聖人の御聖訓に照らしていくなかで、青年たちは、ますます自信を深めていった。
 釈尊も予言している。
 ″末法に入れば、世も乱れ、僧侶は、猟師が獲物を狙う如く、また猫がそっと餌を狙う如くに、信者のご機嫌を取ることのみを考え、人びとを利用し、ただ自分の生活に貪欲になっていくであろう″(御書二二五ページ、趣意)と。
 ″その通りだ″
 青年たちは、折伏をしてみて、教団指導者の実態が仏説通りであると、つくづくわかってきたのである。
 青年たちの語ったことは、戸田の講義のなかの、ほんの一端にすぎない。しかし、そこには、末法の仏法の真髄が凝縮されていた。彼らは、いつか、いかなる宗教と論じ合っても、絶対に敗れるものではないという、強い自信をもった。
 既成宗教であれ、新宗教であれ、宗教といえば、すぐに迷信同様のものとみなす人がいる。確かに、迷信じみた教えを説く教団が、数多く存在することは事実である。しかし、宗教のすべてが、不合理で迷信的な教義を説いていると考えるのは、あまりにも無認識な評価といわなければならない。世界宗教といわれるものは、普遍的な理念をもち、人類の未来を照らそうとする崇高な理想を説き、そして、それを実現するための使命感を訴えている。
 十把一絡げに、″宗教は迷信である″と人びとに思わせた責任は、もつぱら迷信的な″ご利益信心″″崇り信仰″などを宣伝した、新宗教の教祖などの宗教屋にある。さらに、戦後、社会に大きな影響を与えていった社会主義的思想のリーダーたちが、宗教を非科学的なものとして否定したことも、人びとに誤った宗教観を植え付けていく結果になった。
 また、あえて言えば、数多くの教団が説く教義の高低浅深を、厳正に判別する基準をもたず、まやかしの教えに、安易に飛びついていった民衆の側にも、問題があったといえよう。
 日本には、約十八万の宗教法人があるという。宗教法人として、届けられていない宗教団体の数を加えれば、幾十万になるであろうか。宗教の戦国時代ともいえる。ある外国人の記者は、あきれたように言った。
 「全く驚いた国だ。日本は、宗教のデパートだ」

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