Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

光と影  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  創価学会の、戦後第一回の総会が聞かれた一九四六年(昭和二十一年)十一月十七日の二日前、突然、日蓮正宗総本山大石寺六十三世・日満の退位が発表された。日満は、前年十月二十八日に法主の座に就いたが、春以来の病気も癒えず、任に堪えられないと判断したようだ。
 十一月十四日、宗門では臨時参議会が招集された。そして、翌十五日、正式に日満の退位が決まり、即日、水谷日昇が学頭に任じられ、次の六十四世に就任することに決定したのである。日昇が、正式に六十四世に就任する相承の儀式は、翌年の七月十八日に行われた。
 日昇は、五六年(同三十一年)三月に引退するが、日昇が法主になって以来の宗門は、特筆すべき時期となった。なぜなら、在位の十年間、宗門は、創価学会の発展によって、旭日の昇るがごとき勢いを示し、七百年来、かつてなかった興隆をみることになるのである。
 しかし、当時の総本山は、内外に数々の難問をかかえていた。その後の総本山の威容などは、とうてい想像することもできない状態にあった。客殿の焼亡ばかりではない。戦災による焼失寺院・教会は、東京、大阪をはじめ、全国で二十カ寺に上っていた。
 四六年(同二十一年)三月二十八日には、総本山では「戦災寺院復興助成事務局」を発足させた。
 焼失した寺院を建設する資材は、総本山所有の森林を伐採し、製材、運搬して、充当する計画になっていた。
 客殿の復興よりも、まず地方戦災寺院の復興が急務であったのである。戦災寺院復興のためには、助成寄付金を、全国の寺院や檀徒に呼びかけ、募集しなければならなかった。
 日蓮正宗の再建は、このような状況から始まったのである。だが、それをも挫折させる事態が生じていた。同年二月から実施されることになっていた第一次農地改革である。
 それは、不在地主の貸付地と、五町歩(一町歩は約一ヘクタール)以上の在村地主の貸付地を、小作人の希望により、売り渡すことを強制していた。しかし、GHQ(連合国軍総司令部)は、この程度では、いまだ農民解放、民主化指令に適合しない旨を指摘し、第一次農地改革の実施延期を指示した。
 政府は、GHQの勧告を受け入れ、第二次農地改革法案が国会に提出され、同年十月十一日に通過成立した。
 この改革法によれば、在村不耕作地主の保有地は一町歩に限られ(北海道は四町歩)、それを超える部分は、政府が強制的に買収し、これを小作人に優先的に売り渡すことになった。
 総本山も、不耕作の大地主であった。しかも、法律には「法人その他の団体の所有する小作地」は、買収の対象になると規定されていた。総本山は、この規定に該当したのである。
 当時、総本山が周辺に所有していた田畑は、約六十町歩であった。それが、全面的に強制買収の対象になったのである。総本山は強い衝撃を受けた。
 また、この法律には、農地以外でも「農地の開発に供しようとするもの」も買収の対象にできるという一項があった。そこで、上野村の農地委員会は、総本山が所有する六十町歩の田畑のほかに、山林にも目をつけた。傾斜一五度以内の山林は、開墾すれば農地になり得るとして、該当する総本山周辺の山林約三十町歩を、強制買収の対象としたのである。
 結局、総本山は、実に、約九十町歩の所有地を、低廉な価格で買い上げられてしまった。
 世事に疎い僧侶たちではあったが、強制買収の手が、さらに伸びる危険性を予想し、額を集めて研究し始めた。
 ――本山の残された土地を、守らなければならない。それには、買収対象になりそうな山林を、僧侶自らの手で開墾することだ。
 僧侶たちは、自作農地にする道を知ったのである。それには、僧籍を離脱して、耕作農家になる必要があった。開墾適格証を受け、耕作権を認知させる以外に、これ以上の買収を防止する手はなかったのである。
 ″この本山を守るには、野良仕事でも、なんでもする。土地さえ取り上げられなければ……″という切実な考えから、自ら進んで、自作農の手続きをとる僧侶も出たのであった。
 ただでさえ、食糧難の時代である。総本山の僧侶たちは、確保した二町歩余の土地で開墾に励んだ。彼らは、自分たちの食糧を確保し、総本山を維持するためにも、新しい時代の到来を信じて、慣れない鋤鍬を振るったのである。
 来る日も、来る日も、野良仕事である。いつしか、農耕が日課となっていた。たまたま、参詣の信徒が登山してきた日などは、番僧が各坊を触れ回った。それは、月に多くて数回のことである。その日の午後は、農耕は休みとなり、皆、ほっとして、僧侶であったことを、しみじみと思い出すのであった。
 彼らは「農僧」という言葉を発明した。だが、馬などに引かせる農耕道具は、誰一人、持たなかった。すべて、人力に頼るしかなかったのである。その昔、中世には戦闘に従事した僧兵というものが存在したが、終戦後の農地改革は、農僧を生んだのである。
 そのころ、復員した青年僧侶も、ぽつぽつ総本山に戻ってきた。彼らは、明けても暮れてもの農作業に、うんざりした。日常の食事は、イモを加えたイモ水とんや、カボチャである。大坊よりも、各坊の方が、檀家が多少あるだけに、食糧事情は、ましであった。復員の青年僧のなかには、短気を起こして、僧籍に見切りをつけて離脱し、下山する者もあった。
 このような農僧の生活状態は、以後、五一年(同二十六年)秋ごろまで続いたのであった。
 日昇が法主になったころは、このような困難な状況のなかにあったのである。
2  戦後第一回の創価学会の総会直後から、戸田城聖の月・水・金曜日の法華経と御書の講義は、にわかに活発さを加えてきた。受講者は、回を重ねるごとに激増していった。それは、彼の意気込みの結果にほかならなかった。
 戸田の熱烈たる確信は、これらの受講者を、急速に実践家に育て上げていった。受講者にしてみれば、講義には、建設への希望と情熱があった。彼らは、戸田の講義を受けながら、未来の建設への理念と思想を吸収して確信を深め、活動の舞台を広げていった。
 日曜日を中心とした、各所の座談会も活発化してでいる。それを、どのように理論的に、また文献を裏付けにして説明していくかを、戸田から学び取っきた。そして、火・木・土曜日にも、しばしば臨時の座談会が、華々しく開催されていったのである。
 時には、未入会の人を交え、真剣のあまり、激論になるような折伏の光景も見られた。
 戸田は、これら一切の会合の、先頭に立たなければならなかった。弟子たちは、勇んで行動しているものの、相手を十分に納得させるには、まだ力が弱かったからである。
 「この信心は絶対だ」「この宗教は間違いない」と叫びはしたが、どうして絶対であり、間違いないのかを、相手に納得させる力がなかった。そのためには、まず弟子たちに、実践を通して指導していかねばならなかった。
 彼らは、皆、熱心であった。体験は明確につかんでいる。それを、どのように理論的に、また文献を裏付けにして説明していくかを、戸田から学び取っていった。
 戸田は、夜ごと、寸暇を惜しんで飛び回った。鶴見に、小岩に、蒲田に、また目白や中野など、彼の行動半径は、京浜一帯にまで及んでいた。都内は街灯もなく、街は暗く寒かった。極度の近視の彼は、でこぼこの夜道は苦手だった。転びそうになったことが幾度もある。だが、定刻には、決まって、意気はつらつとした姿を、座談会場に現した。
 会場は、畳がぼろぼろの、四畳半の借間のこともあった。床の傾斜した、屋根裏部屋のこともあった。引力に逆うために、力んで座っていなければならなかった。また、床板が抜けているのであろう。歩くたびに、タンスの引手が、カタカタと鳴る家のこともあった。
 電灯の暗い家が多い。その下に、戸田が姿を現し、「よう!」と元気な声をかけると、人びとは、決まって笑顔になった。
 待ち構えていたように、さまざまな質問が飛び出してくる。その瞬間から、人数は少なくても、座談会は始まった。形式を避け、実質本位であった。
 戸田は、何事にも形式主義を嫌った。生命と生命との、実質のある触れ合いは、形式的な官僚主義からは生まれない。あくまで庶民の味方として立つ彼は、一切の形式的な虚飾を取り去って、庶民の、ありのままの生地を大事にしたのである。
 彼は、いかにも庶民的な指導者であった。仁丹をポリポリかじりながら、質問者たちのくどい話を、じっと聞いては、それを要約し、極めて単純化して応答した。そして、信心の深さと強さを教え、途方に暮れた人たちに、御本尊の功力の偉大さを教え、激励した。
 仕事の都合上、遅れて来る人も多かった。その人たちが来る時刻には、部屋はいっぱいで、座を何度も詰めなければならなかった。会合は決まって、明るく、温かな、高揚した空気が流れていた。
 戸田は、戦後日本における布教形態として、あえて小単位の座談会を各所で開いていった。たいていは、わずか数人から二十人程度の会合である。
 このような地味な会合を、座談会として活発に行ったのには、理由があった。
 そこには、老人も、青年も、婦人も、壮年も、誰もが集うことができる。貧富の差や、学歴の違いは、全く問題ではない。むろん、この会合には、中心者はいるが、あくまで皆が主役である。
 したがって、今日、初めて来た人も、あるいは信仰に疑問をもっている人でも、自由自在に意見や、質問や、体験を語ることができる。
 一切の形式抜きで、全員が納得するまで、語り合うこともできる。
 戸田は、これこそ民主主義の縮図であると考えた。
 ――赤裸々な人間同士の、生命と生命が触れ合って、心と心とが通い合う会合である。いわば仏道修行の、求道の道場でもあろう。また、学会を大船とすれば、座談会は大海原である。大海原の波に乗ってこそ、民衆救済の大船は進むことができる。
 講演会や、大集会を開くのもいいだろう。しかし、それだけでは、指導する側と民衆との聞に、埋めることのできない溝ができてしまう。あくまでも、一人ひとりとの対話こそ根本である。どこまでも、牧口会長以来の、伝統の座談会を、生き生きと推進し続ける限り、広宣流布の水かさは着々と増していくであろう。
3  戸田は、同行していた弟子たちを指名する。そして、仏法の歴史や人生の目的を、さらには幸福論や十界論を、語らせるのであった。その後、参加した友人に対して、おもむろに折伏を始めるのである。
 まず、考える材料を十分に示して、参加者の質問を受けた。
 友人たちのタイプは、さまざまであった。疑い深そうな人もいれば、何かを求めているような人もいた。とぼけた質問をする人もいれば、憤然としている人もいた。なかには、失笑を買うような、的外れな質問をする人もいた。
 戸田は、どの質問にも、穏やかではあるが、厳然と応答した。そして、誰人をも納得させていくことに、努力していた。
 だが、多くの人が、内心、入会を決意しかかるとろ、会場の一隅から、しばしば、それを阻むような、激しい発言が飛び出すことがあった。その多くは、復員服姿の青年たちである。
 彼らは、頬はとけ、目つきの鋭い形相で、暴言を吐き、食ってかかってくる。
 「俺は、騙されないぞ! そんなうまい話に、騙されるかっていうんだ。そんなインチキは、ごめんだよ!」
 青年を連れてきた人は驚いて、その青年のズボンや上衣を引っ張ったりして、黙らせようとする。
 戸田は、それを制し、変わらぬ口調で言った。
 「しゃべらせなさい。言いたいだけのことを、しゃべらせなさい」
 そして戸田は、青年に向かって、沈着に呼びかけた。
 「騙すとか、騙されないとか、言っているが、いったい、何のことかね。それを聞こうじゃないか」
 青年は、一瞬たじろいで、われに返った。だが、堰を切った憤怒を、今さら抑えることもできなくなっていた。敗戦によって、希望を喪失したとの青年たちは、理性も消滅し、残った感情だけの叫びしかなかった。
 「そうじゃないか。俺は、騎されないぞ!
 仏国土の建設――そんなお説教には、もう騙されないぞ。俺たちは、考えてみれば、もの心ついてから、ずっと、編され続けてきたようなもんだ。
 『天皇の軍隊』『無敵海軍』『八紘二子』『聖戦』『欲しがりません勝つまでは』……いじらしいじゃないか。俺は感激して予科練に入り、最後に特攻隊となった。『神州不滅』『悠久の大義に生きる』――ここまできた時、ちょっと寂しかったねえ。だが、俺たちの死が、日本民族の永遠の繁栄のためになるなら、喜んで死んでいけると、心から思っていた。
 ところが、どうだ。めちゃくちゃじゃなか。目が覚めて、自分が何をやってきたかを、冷静に振り返ってみたら、とんでもない。みんな、嘘っぱちだったよ。若い俺たちは、いい調子に踊らされていただけだ。
 俺は、そこで、トコトンまで考えたね。踊らしたやつは、大悪党だが、騙され続けてきた俺たちも、大間抜けの、お人好しだと悟ったね。人を恨んだって、始まらない。ただ、この先、いったい何年、生きるものかは知らないが、もう絶対に、二度と騙されまいと、俺は固く決心したんだ」
 だぶだぶのズボンが印象的である。特攻隊時代のものであろう。青白い顔である。
 青年は、顔を少し痙攣させ、空をにらむようにして、口を結んだ。捨てばちのようにも見えるが、単純ともいえる。強がりを見せているのであろう。
 戸田は、聞き終わると同時に、青年に呼びかけた。
 「君の言うことは、おそらく間違っていまい。君自身が経験したことなんだから、事実といえば、事実だろう。騙されたと知ったことは、今の君にとって、かけがえのない真実だとも思う。しかし、今の君の不幸は……」
 ここまで戸田が語ると、青年は、素早く機先を制し、手を振ってさえぎった。
 「冗談じゃない。そう簡単に、俺が、今、不幸だなどと、決められてはかなわない。正直いって、俺は、不幸でもなければ、さりとて幸福でもない」
 「では、なんだ」
 「なんでもないのさ。それだけの話よ」
 青年は、明けるように笑った。だが、その笑いの虚無的な寂しさを、戸田は見逃さなかった。この青年を、哀れに思わずには、いられなかったのである。
 戸田は、この青年をかわいいと思った。
 「君は、今、真剣に考えているようだ。ぼくも、真剣に話そう。まあ、こっちへ来て、座りなさい」
 ″特攻隊″は、やっと前に進み出てきた。小机を挟んで、戸田の前に正座した。青年の殺気は、やや消えていた。
 戸田は、笑いながら言った。
 「君は、騙された、騙されたと、一年半も腹を立ててきたわけだね。深く考えてごらん、つまらないことだ。もう今夜限り、腹を立てるのは、やめたまえよ」
 周囲の人びとは、くすくす笑いだした。だが青年は、笑わなかった。また、腹を立てたようである。
 「君は、騙されたといったが、そう悟る前は、騙されたものを本当に信じていたんだね」
 「信じていましたよ。心から信じ切っていましたとも。だから、腹が立つんだ」
 戸田は、頷きながら、だだっ子をあやすように言った。
 「信じた君が、悪いわけではない。信じたものが、あまりにも悪かっただけだ。それを君は、気がつかなかった。気がついたら、腹ばかり立つでしょうがない。そうだろう」
 「そうです」
 「君の経験でわかるように、無批判に信じるということは、恐ろしいことなんだ。世の中に、こんな恐ろしいことはない。間違ったものを信じると、人は不幸のどん底に落ちる。どんなに正直で、どんなに立派な人であっても、この法則に逆らうことはできない。君は、こういうことを、ちょっとでも考えたことがあるかね」
 「…………」
 青年は、返事をしなかった。いや、うつむいてしまったのである。
 「これは、ぼくが勝手に言っているのではない。七百年も前に、日蓮大聖人という方が、鏡に映したように、はっきりと、おっしゃっていることだ。何を信じるかによって、人生の幸・不幸は決まってしまう。これは、宗教という面に、最も強く、鋭く現れるものだ。人生百般、ことごとく同じだと思う。
 君は、誤った思想、一口に軍国主義といってもよい――要するに間違った思想を、少年時代から正しいと信じて、行動してきた。その帰結が、今日の君の人生という結果を生んだにすぎない。
 少年の君に、信じ込ませた者が悪い。″憎むべきやつらだ″と君は思うだろう。しかし、彼らも正しいと信じて、君に教えたにすぎない。彼らもまた、大部分の人は、君と同じように、本質的には不幸でもない、幸福でもない、なんだかわからないといったような道に、落ち込んでいる。それは当然のことだ。
 このことは、どうしょうもない必然であるし、厳然たる事実だ。だが人は、信じなければ、なんの行動も取れないから、いろいろなものを簡単に信じてしまう。君は、今、信じるということの恐ろしさを知ったはずだ。だから、もう騙されまいと、張りつめている。その君の心の動きは、ぼくには、よくわかる」
 青年は、″おやっ″という顔をして、戸田を見つめた。自身の頭のなかが、幾分、整頓されてきたのであろうか。虚無的に見えた表情が、はにかんだ表情に変わってきた。
 戸田は、しばらく青年の顔を見つめていた。
 全員の耳は、戸田の次の言葉を待っていた。
 「しかし、君が、ここで考えねばならないことは、心から信じるに足るものが、果たしてこの世にあるか、ないかということだ。
 キケロという哲学者も、病気にかかった思想は、病気にかかった肉体よりも始末に負えないし、その数も多い――と言っているくらいだ。
 結論的に言って、日蓮大聖人は、一切の不幸の根本は、誤った宗教・思想にあると断言していらっしゃる。そして、究極のところ、正しい宗教・思想は、何であるかをご存じだったから、あらゆる迫害に屈せず、命をかけ、大確信をもって、お説きになったのだ。その大聖人様が、君を騙して、いったい何になる……。
 間違った宗教・思想が、不幸の原因だとしたら、正しい宗教・思想が、人びとを幸福にするのは当然じゃないか。少しも不思議なことなんかあるものか。
 その正しい宗教の根本法を、南無妙法蓮華経という。大聖人様は、末法の不幸な民衆を憐れんで、その根本法を、御本尊という形にして残された。それが、ここの家にもある、あの御本尊様です。観念論でも、空論でもない。偶像崇拝でも絶対ない。この御本尊を対境として、自身の仏の生命を涌現していく宗教だ。自分自身の仏界を涌現して、自己の最大最高の主体性を確立し、人間革命していく宗教です。
 ずいぶん飛躍した言い方をすると、君は思うかもしれない。それは君が、まだ仏法の真髄を、全然、知らないからだ、ともいえると思う。

1
1