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日蓮大聖人・池田大作

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序曲  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  一九四六年(昭和二十一年)十一月三日――新憲法、つまり、「日本国憲法」が公布された。明治憲法と言われてきた「大日本帝国憲法」が、ここで根本的に改革されたのである。
 旧憲法は、欽定憲法といわれたように、天皇によって制定されたという形式をとっていた。要するに天皇主権主義であり、軍国主義を可能にした条項を含んだ憲法であった。
 これに対し新憲法は、国民主権を掲げ、平和主義を標榜し、基本的人権の尊重を高らかにうたっている。
 その条文のなかでも、制定の際に論争の的となったのは、第一章第一条から第八条までの天皇に関する条項と、第二章第九条に定められた戦争放棄の条項であった。
 しかし、このうち特に第九条の規定が、将来どのような事態を招くことになるか、誰人も予測できなかったのではないだろうか。当時の指導者、マッカーサーや幣原喜重郎、吉田茂等も、例外ではなかったにちがいない。
2  第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
 第九条 (1) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇文は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
     (2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 第一条の後段にも明記されているように、主権が国民にあること、つまり主権在民は世界の趨勢であり、当然のことである。しかし、第九条に定められた戦争の永久放棄は、世界の政治常識の意表を突いたものであったことは確かだ。
 平和主義を理念とするこの第九条が、好戦国と思われていた日本に出現したことは、世界の人びとにも、一種異様な不思議さとして受け止められたにちがいない。
 日本の軍事力の解体を完了したマッカーサーは、将来にわたって、再び日本が戦争できぬよう、その能力を剥奪することを意図していた。彼は、これが人類の歴史上、前例を見ない難問であることを承知していた。しかし同時に、恒久平和をめざす民主国家を、自らの手でつくり上げたいという理想に燃えていたにちがいない。
 占領下の日本政府の首脳は、幣原喜重郎にしろ、吉田茂にしろ、何よりも、天皇制の維持に最も心を悩ませていた。マッカーサーと天皇との第一回会見以来、天皇が戦犯として起訴される心配はない、との感触は得ていたものの、まだ確実に保証されていたわけではなかった。皇室の存続を最大の課題とする彼らは、そのためには、他の譲歩はやむなしとの決意をいだいていた。
 マッカーサーは、日本の占領統治を円滑に実施するために、天皇を温存させることが、得策であるとの方針を固めていた。しかし、連合国側には、天皇を軍事裁判にかけるべきだとの、強硬な意見をもつ国も多かった。そこで、連合国のなかにある天皇に対する批判の声を、封じ込める必要があった。そのためには、日本を徹底的な平和国家につくり上げる道筋を示すことが、最も効果的な方法であったのではなかろうか。
 このような勝者と敗者との思惑が交錯するなかで、第九条は生まれたともいえる。少なくともその出発点が、平和主義という本質的な理念からでなかったことは、確かであろう。それは、憲法改正作業をめぐる経過を振り返ってみれば、明白である。
3  マッカーサーは、一九四五年(昭和二十年)十月四日、東久邇内閣の国務大臣・近衛文麿と会談し、日本の民主化へ向けての憲法改正を示唆した。その東久邇内閣は、翌五日に総辞職し、九日に幣原内閣が発足した。
 近衛は、国務大臣の職を離れたが、マッカーサーから憲法改正の指示を受けたと信じていた彼は、準備のために、八日にGHQ(連合国軍総司令部)の顧問であるジョージ・アチソンを訪ねた。この時、アチソンは、多項目にわたる改正の基本的な要綱を、近衛に伝えている。しかし、そのなかには、天皇の象徴化も、戦争放棄の項目もなかった。
 近衛は、十一日に内大臣府御用掛に就住し、具体的な作業に取りかかった。近衛が内大臣府御用掛に就いたのは、明治憲法においては、憲法改正の発議権は天皇にしかなく、天皇に助言を与えるのが内大臣府の任務であったからである。
 この十一日に、新内閣の幣原首相は、マッカーサーを訪ねて会見したが、そこでもマッカーサーは、憲法の民主的改正を示唆した。しかし、この際にも、天皇の地位についても、戦争放棄についても、話題が及ぶことはなかった。
 この二日後の十三日、政府は国務大臣の松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会の設置を決めた。
 こうして、マッカーサーの示唆によって、憲法改正を研究する機関が、内大臣府と内閣の双方にできてしまった。しばらくすると、このことが問題視され、憲法改正は内閣の仕事であり、内大臣府が、かかわるのはおかしいとの声が起きてきた。また、近衛の戦犯問題も話題に上るようになってきた。
 このような事態の推移のもと、マッカーサーは態度を一変させた。十一月一日、GHQは、憲法改正問題に関して、近衛を支持しないと表明したのである。
 近衛は、自分が天皇の命によって憲法改正に向けて準備していることを述べ、十一月二十二日に調査結果を天皇に報告したが、十二月六日に戦犯容疑者として逮捕命令が出されると、出頭日の十六日、服毒して自殺した。
 十一月二十六日に、第八十九回臨時帝国議会が召集された。議会では、憲法改正問題がたびたび議員から提起された。
 十二月八日、憲法問題調査委員会の委員長でもある松本烝治国務大臣は、質問に答えるかたちで、後に「松本四原則」と称される内容を、個人的見解として述べた。しかし、それは明治憲法の基本理念を改革しようとする内容ではなかったし、そもそも政府は、本格的な改正が必要とは、考えていなかったようである。
 このころから、各党も憲法改正案を相次いで発表した。自由党案も、進歩党案も、天皇に統治権を与える内容であった。
 改革的と見られていた社会党でさえも、主権は天皇を含む国民協同体にあるとし、統治権は天皇と議会に分割するとの考えであった。
 天皇制廃止を主張する共産党が発表した「新憲法案成の骨子」にも、戦争放棄については影すら見えなかった。
 要するに、保守、革新ともに、世界の動向についての把握が的確でなく、明確な方向性も展望も、もっていなかったのである。
 年が明けた一九四六年(昭和二十一年)一月末から、内閣では、数回にわたって憲法問題について討議が行われた。
 二月四日、憲法問題調査委員会での最終意見を聴取して、内閣としての審議を終えた。しかし、内閣がとりまとめた憲法改正要綱は、統治権は天皇にあるとする明治憲法の条項には、ほとんど手をつけておらず、憲法改正をめざすというには、程遠いものであった。
 松本国務大臣が、この改正要綱をGHQに届けたのは、二月八日であった。この時、既に、GHQが憲法改正作業に全力を集中していることなど、首相の幣原も、松本も、全く知る由もなかった。
 その一カ月前の一月十一日、マッカーサーは、スウインク(SWNCC=合衆国国務省・陸軍省・海軍省の三省調整委員会)から、一通の極秘文書を受け取っていた。「日本の統治体制の改革」と題するこの文書は、憲法改正に関する米国政府の考えを示したものであった。GHQは、日本政府の動きを注視しつつ、憲法改正に向けた準備作業を開始した。
 二月一日、毎日新聞が重要なスクープ記事を一面に掲載した。それは、「憲法問題調査委員会試案」の全容なるものであった。
 そこには「憲法改正・調査会の試案」「立憲君主主義を確立」という見出が躍っていた。正確には一委員の試案であったが、憲法問題調査委員会が準備している試案と、骨子において本質的な相違はなかった。
 このスクープ記事に、GHQは即座に反応した。試案の全条文が英語に翻訳され、マッカーサーに届けられた。
 マッカーサーは、日本政府に民主的な憲法の立案を期待することは、不可能だと判断したにちがいない。二月三日の朝、彼は、GHQ民政局に対し、憲法改正草案の早急な作成を指示し、草案に盛り込むべき不可欠の内容として、三点を記したメモを渡した。いわゆる「マッカーサーノート」である。
 そこには、(1)元首としての天皇の地位、(2)戦争放棄、(3)封建制度の廃止、が記されていた。ここに初めて、「戦争放棄、軍備撤廃」が浮かび上がってきたのである。
 マッカーサーの指示を受け、翌四日から、草案作業が急ピッチで進められ、GHQの憲法草案は十二日に完成した。
 翌十三日、GHQ民政局長のコートニー・ホイットニーは、吉田茂外務大臣、松本震治国務大臣に会い、八日に受け取った日本政府の憲法改正案は容認できないことを告げ、同時に、GHQが作成した改正草案を提示した。
 両大臣は驚愕した。彼らは、この日、八日に提出した憲法改正要綱についてGHQの意見を聞き、それに基づいて憲法改正作業を開始するつもりだったのである。
 GHQ草案の内容を見て、彼らの驚きは深まった。驚きというより、憂慮を深めたといった方がいいかもしれない。革命的ともいえる、あまりにも抜本的な改革内容だったからだ。即答できるようなことではなかった。
 松本は、幣原と協議し、日本側の要綱について再説明書を提出した。だが、十八日、ホイットニーは、GHQ草案の原則を盛り込んだ改正案を作成するか否か、二十日までに回答するよう告げてきたのである。
 二月十九日、閣議が聞かれ、松本国務大臣から経過報告が行われた。各大臣には、初耳であった。青天の霹靂ともいうべきGHQ草案に、議論百出となった。
 あまりにも斬新な草案内容に、彼らには、GHQの意図がどこにあるのかすら、見当もつかなかった。結局、幣原首相が、自らマッカーサーを訪ね、GHQの考えを確認してくることを決め、閣議は終った。
 二十一日に、幣原はマッカーサーを訪ね、長時間にわたり会談した。この時、幣原は、マッカーサーの話を聞いて、日本が、いかに厳しい国際世論のもとにあるかを初めて知ったのである。
 この時期、日本占領政策についての連合国の最高決定機関である極東委員会の第一回の会合が、二月末に開催されることが決定していた。委員会には、天皇制廃止を強硬に主張しているソ連やオーストラリアが参加していた。極東委員会が活動を開始した場合は、その指示に従わなければならない。
 マッカーサーは、日本が天皇の地位の安泰を図るには、極東委員会が異を唱えにくいような、平和的、民主的憲法案を、早急に示す必要があると考えていた。
 それには、象徴天皇制と主権在民、戦争放棄を明確にすることが絶対に必要であり、これを受け入れなければ、日本の安泰も、天皇の安泰も困難であろう――と、彼は説いたのである。
 幣原は、もはや、GHQ草案を拒否することはできないと悟った。

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