Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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幾山河  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  一九四六年(昭和二十一年)の九月下旬――。
 北関東の山々は、既に秋たけなわであった。
 農家の庭の柿は色づき始め、路傍には、薄紫色の野菊や、さまざまな秋の草花が咲き薫っていた。風に揺れるススキの穂も、秋の到来を告げていた。
 戸田城聖ら一行七人は、朝早く、栃木県那須郡の黒羽町を発ち、徒歩で両郷村に向かっていた。
 那珂川に沿って北に向かい、途中で、一行は、街道を右にそれて、山道に入った。傾斜は緩やかだが、石ころの多い田舎道であった。
 那須高原に近い、この地方は、右にも左にも、山々の峰が重なっている。北西は、那須火山群の山々である。その中央は、活火山の茶臼岳だ。峰からは、白い煙が、かすかに上っていた。
 空は澄んでいた。山脈の陰影も、濃淡を表している。なかには、既に黄ばみかけた木々もあった。
 山は、急ぎ足で秋の半ばを迎え、今、装いを変えようとしているのであった。
 静かだ。平和だ。
 杜甫の「春望」の詩が、戸田の心に思い浮かんだ。
 「国破れて山河在り
 城春にして草木深し
 時に感じては花にも涙をそそ
 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす……」
 ここは城ではない。春でもない。今は秋だが、「草木深し」とは、確かに実感であった。
 一行は、しきりに空を仰ぎ、山を眺め、喜々として、遠近の風物に目をやりながら歩いていた。
 真っ赤な葉鶏頭、紅紫の小花をつけた萩、丈高く伸びたエゾ菊……。
 焼け野原の東京人の目には、絵よりも美しく感じられた。
 遠い山々の峰は、近くの山に隠れてしまった。柿の実や、イガをつけた栗の実が、目に入ってきた。
 都会育ちのある人は、「栗だ」「柿だ」と、大発見でもしたように、指をさし、子どものように、はしゃいでいた。
 戸田城聖の表情は、国破れた日本の山河に、やがて永遠の楽土を築くために、今、力強く歩いているのだという自負心に輝いていた。
 一行は、小西武雄から、八キロほどの道程と聞いていたが、歩き慣れない田舎道は、単調で長く感じられた。
 「ずいぶん遠いな。まだか?」
 戸田は、小西に呼びかけた。
 「いや、もうすぐです」
 先頭に立つ小西は、振り向きながら言った。
 「さっきから、もうすぐ、もうすぐといって、ちっとも、すぐじゃないじゃないの」
 清原かつは、小西に向かって叫んだ。皆も、「そうだ、そうだ」と口をそろえて攻撃した。
 戸田は、弟子たちの騒ぎを、度の強いメガネ越しに、慈眼を向けて楽しそうに見ていた。
 彼は、笑いながら言った。
 「小西君の『もうすぐ』は、われわれと距離の単位が違うようだな。道を間違えたんじゃないだろうな。おいおい、大丈夫かい」
 小西は、真面目くさって答えた。
 「先生、まさか。ここは一本道ですよ。大丈夫です。本当に、もうすぐです」
 「本当か?」
 一行は、どっと笑った。にぎやかな笑い声は、静寂を破って、透明な秋空に消えていった。
 戸田は、夏服を着ていた。洋服の襟から、真っ白い開襟シャツがのぞいている。そして、鳥打ち帽子を、ちょこんと頭にのせていた。
 長身の彼の周囲には、六人の男女が、先になり後になり、一団となって坂道を上っていった。
 彼らは、それぞれチグハグな服装をしていた。よれよれのスフの国民服の人もいる。ある人は、色あせた不格好な黒の背広に、兵隊用のズボンをはいていた。中年の女性は、もんペに、夫の背広を着て、長い袖の先から指先をのぞかせていた。まるで仮装行列である。戦後の衣料の窮之のため、服装など、全くかまっていられなかったのである。
 地元の人たちは、この一行を買い出し部隊と思って、眺めていた。だが、不思議にも思った。
 彼らは、誰一人としてリュックサックを背負っていない。買い出し部隊特有の、消沈した顔、暗い影、焦りの目も見られない。いや、あまりにも明るい、生き生きとして活気に満ちた動作である。この一団には、近年、戦前戦後を通じて見られぬ明朗な雰囲気があった。時折の哄笑、爆笑に、村人までが楽しくなるほどであった。
 村人たちは、いささか奇異の眼差しで、一行を見送っていた。
 「さぁ、いよいよ村に入った。ほれ、これを見ろ」
 小西武雄は、一本の電柱を指して大声で言った。
 そこには、粗末な紙に、墨で黒々と書かれたビラが張ってあった。
 一行は、すぐに電柱に近づき、顔を寄せた。
 「戸田城聖氏来る
 法華経大講演会
  九月二十二日午後二時 両郷国民学校にて」
 「やってるな、やってるな」
 原山幸一は、じっとビラを見ながら言った。人柄のいい彼は、喜びの表情を隠しきれず、同志の奮闘に、心からの祝福を送ったのである。
 「増田さん一家も、大したものね。戦後、地方で先駆を切って折伏に立ったんだもの。皆、うんと応援してあげようじゃない」
 清原かつの口調も、妙法の使徒に対する激励の情にあふれでいた。
 戸田は、カラカラと笑った。そして、屈託ない声をあげて言った。
 「戸田城聖などといったって、誰も知るまい。いったい、どんな男かと思って、大勢やって来るといいんだがなぁ」
 しばらく行くと、またビラが張ってあった。そのたびに、一行の足の運びは、次第に速く、軽くなっていった。
 「先生、ここです、増田さんの家は……」
 小西は、道に沿った一軒の農家を、指して言った。
 「やれやれ、来たか。小西君の『もうすぐです』には、今日は、まいったな」
 皆は、軽口を叩きながら、裏に回り、南側の中庭に出た。
 人声を聞きつけた増田の一家は、さっと飛び出してきた。待っていたのである。その顔は、喜びを満面にたたえて明るかった。
 増田久一郎は、元警察官であり、牧口門下の学会員で、東京の大森に住んでいた。戦時中に退職して、ある会社に籍を置いていたが、戦況が不利になってきた一九四四年(昭和十九年)五月に、郷里の両郷村へ、家族全員を疎開させたのである。
 妻と娘二人と、姉娘の婿との四人である。娘二人は、東京でも教員をしていたので、この村の国民学校に職を得ていたが、時間を見つけては、家族と農業に励んだ。
 久一郎も、戦後は東京を去り、郷里で一緒に暮らすようになったのである。国破れ、年老いてみれば、故郷で農業に専念する道しかなかった。
 親から受け継いだ田六反(約六〇アール)、畑四反(約四〇アール)、計一町歩(約一ヘクタール)の農地に悪戦苦闘する、未経験の自作農一家である。六十の坂を越えた久一郎を、先頭にしての労働であった。そのうえ、肥料すらない。近所の農家の人びとは、一家を冷ややかに見ていた。
 慣れない農作業は、実に辛かった。勝手も違う。
 しかし、彼らには、御本尊があった。慌ただしく変動する時代に、生活様式も大きく変わる人生行路に立って、ただ一筋に、御本尊に一切を願わずにはいられなかった。
 増田一家は、にわかに那須山中で一粒種の強盛な信仰者になっていたのである。
 彼らは、慣れぬ農作業に懸命に取り組んだ。また、地域への貢献のために力を注いできた。彼ら一家の真剣な仕事ぶりと、純粋に信仰を続ける姿に、村人の好奇の目も、いつか畏敬の目に変わっていった。一家の折伏活動は、歓喜のうちに、自然と始まっていたのである。
 御書に「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」とある。妙法それ自体の偉大さに変わりはないが、それを弘める人の出現を待って、初めて法の尊さが実証されるという原理だ。
 増田一家にしても、那須山中に、妙法の功力を燦然と輝かすためには、道理にかなった実践と、燃えるような信仰の一念が必要であった。この地に、妙法が広まるかどうかは、すべて、一家の信仰の厚薄にかかっていたのである。
 ちょうどそのころ、東京の学会本部では、地方指導の日程を決定した。九月二十一日の土曜日から、「秋季皇霊祭」(後の「秋分の日」)の二十四日までである。場所は、栃木県の両郷村と、群馬県の桐生市に、指導の手を伸ばすことになった。
 桐生にも、数人の疎開した学会員がいた。彼らは、同地の日蓮正宗檀信徒と共に座談会を開催し、折伏活動が活発化していた。
 敗戦ここに一年――一九四六年(昭和二十一年)秋のことである。初代会長・牧口常三郎が、地方指導の途次、静岡県の下田で身柄を拘束された四三年(同十八年)七月から、三年余の月日が経過していた。今、学会の再起も、戦後最初の地方指導を敢行する段階にまで、発展していたのである。
2  この二カ月前、黒羽町の近村に、小西武雄が現れた。彼の生家が、あったからである。
 彼は、ある日、師範学校時代の親友が、両郷国民学校にいることを知り、自転車を飛ばした。校庭から、職員室にいる親友に声をかけた時、そこに、一人の女性がいた。その女性が、彼に向かって叫んだ。
 「まあ、小西先生ではありませんか!」
 小西は、とっさに誰であるか、思い出せなかった。
 「私、増田でございます。直江です。関先生に折伏された、増田直江です」
 久一郎の長女・直江は、この奇遇を喜び、創価教育学会の消息を、しきりに尋ねるのであった。
 彼女は、戸田理事長の健在を知り、学会の活動が、早くも軌道に乗ったことを聞いて驚いた。そして、今年は、夏季講習会も数年ぶりで復活する旨を聞き、山中の自分の遅れを、強く感じたのであった。
 一家は、この出会いを喜んだ。これを契機に、直江は、学校が休暇に入ると、妹の政子と共に東京へ走った。そして、親しかった学会員の家を、訪問したりした。さらに、西神田の学会本部の法華経講義にも出席した。
 戸田城聖の生命論は、彼女たちには、全くの衝撃であった。大きな感動を覚えた二人は、そのまま同志に伴われて、戸田に親しく指導を受けた。
 彼女たちは、村の折伏の困難を訴えた。
 戸田は、優しく、つつみ込むように話を聞いた。終わると、温かい激励の末に、きっぱりと言った。
 「よろしい。行ってあげよう。しっかり下種しておきなさい。約束したよ」
 姉妹は、闘魂を燃え上がらせ、火の玉のようになって、村へ帰って来た。
 ″この地が、広宣流布の最初の地方拠点となる。ここから、妙法の聖火が上がるのだ!″
 姉妹は、真剣であった。その夜から、折伏を開始したのである。
 暇さえあれば、村の一軒一軒を折伏して回った。
 学校の若い二人の先生姉妹の話である。村の人たちも、話には耳を傾けた。
 だが、信心する人はいなかった。要するに、何がなんだか、わからなかったのである。宗教の話かと思うと、そうでもない。哲学の話かと思うと、実に現実的な生活に話が飛んだ。話す方も、聞く方も、話は錯綜してしまった。二人の姉妹の熱情が、聞き入る人びとの胸奥に響いてはいた。
 しばらくして、東京から、「戸田理事長以下、七人の幹部が指導に行く」との通知が届いた。
 増田一家は、戸惑ってしまった。
 「さあ、大変だ!」
 苦労性の直江は、大挙してやって来る学会の幹部の名前を見て、一層、驚いた。明るい政子は、歓声をあげた。しかし、一家の心に去来するものは、″迎える自分たちに力が足りず、せっかくの、この指導を失敗させては大変だ″という心配だった。
 皆、真剣に悩み始めた。
 「政子ちゃん、どうしよう。こんなに大勢、来ていただいて……」
 姉は、妹に呼びかけた。
 「私だって、こんなに大がかりになるとは、思わなかったわ。こんな山の中ですもの…。一人か、二人ぐらいと思っていたわ」
 政子まで、心細くなってきたのである。
 「お母さん、どうしましょう。私、困るわ」
 「そうだね……」
 母のよねは、そう言ったきり、黙り込んでしまった。
 久一郎は、彼女たちの話を聞いていた。それまで、固く口を結んでいたが、皆の顔を見ながら言った。
 「千載一遇じゃないか。ありがたい話だ。何も困ることはない」
 「だって、お父さん、せっかく、こんな遠いところまで来てくださるっていうのに、誰も集まらなかったら、お詫びのしょうもないじゃありませんか」
 直江の言葉を受けて、政子も言うのであった。
 「本当よ。いくら折伏したって、誰一人、信心をしない、ひどい村です。お父さんは、認識不足よ」
 「信心する、しないは別として、村の人たちを、真心込めて集めることに努力しよう。今こそ、そのことを御本尊様に祈りきる時じゃないか。一家で、全力をあげて頑張ろうよ。至誠が通じないわけがなかろう」
 久一郎は、確信を込めて言った。皆、父親の強い一念に動かされたのであろうか、たちまち頷き合った。
 時ならぬ家族会議も、結局のところ、「家中の人ひとりが、会う人ごとに、二十二日、日曜日の会合を知らせ、出席を確約させていく以外に方法はない」ということに、話は落ち着いた。そして、「ビラを張ろう、遠い集落の電柱にも、漏れなく張ろう」ということに一決したのである。
 二人の姉妹は、それでも不安でならなかった。この夜から、二人の唱題は深夜まで続いたのである。
 彼女たちは、父親の確信を通して、いざという時の一人の決意、信心が、どれほど多くの人に影響を及ぼすかを、あらためて知った。この時の父親の一言が、二人の人生の糧となった。
3  一行七人は、前日の正午ごろ、東京を発っていた。
 乗車制限の厳しい最中である。各駅は、一日の乗車券の発売枚数を制限していた。一枚の乗車券を入手するにも、半日以上も、出札口に列をつくって、順番を待たねばならなかったのである。
 日本人の悪癖は、こうした時に現れる。駅員は、つまらぬ特権意識を顔に出して、威張り散らしていた。また、行列の難行苦行を避けるために、乗車券を闇ルートで手に入れて、ことさら偉ぶる者もいた。迷惑するのは、いつも善良な庶民である。
 切符の行列だけではない。当時の俸給生活者が、二、三日の旅費を捻出すことも、容易ではなかった。急激なインフレの皺寄せが、彼らの肩に、かかつてきたのである。月々の給料だけで、満足な生活を送れる人は、どこを探してもいなかった。ほとんどの人が、内職で稼ぎ、衣服を売って、その日、その日をしのいでいた。
 生活の前途は、あまりにも暗かった。朝夕のあいさつ代わりに「民主主義」を口にしても、現実の生活は、ますます絶望の淵に沈むばかりであった。
 旅行者といえば、ほとんどが買い出しであった。彼らの多くは、復員兵たちであった。列車という列車は、すべてこれらの人びとで超満員である。時には、機関車の前部までも、人で鈴なりになっていた。
 土曜日の東北本線も、それこそ車内は立錐の余地もなかった。定員の三倍、いや五倍にも達した乗客は、デッキにまであふれ、乗降口の鉄棒にも、多数の人がしがみついていた。駅々での乗降も、窓から出入りしなければならなかった。秋といっても、車内は、ほこりにまみれ、人いきれと汗の臭いで、むせ返っていた。そして、長い停車時間には、さらに我慢がならなかった。
 戸田城聖も、これらの群衆と共に、立ちながら、汽車に揺られていた。一行の誰かが、戸田の体を案じて話しかけると、彼は、笑いながら大きな声で言った。
 「なかなかの難行苦行だよ」
 彼は、周囲の乗客の心を、ひしひしと感じて、いとおしくさえ思っていた。空しい顔と、殺気だった目の底には、不安と絶望に駆り立てられている心の動揺が、ありありと、うかがえたからである。
 しかし、立ち込めた悪臭と、身動きならない満員列車には、彼も、相当、疲れてきた。
 戸田は、一行の一人ひとりの顔を探した。それぞれ、すし詰めの車内にあって、活力にあふれ、際立って明るい顔をしているのを見て、ひとまず安心した。
 長身の彼は、人びとの肩越しに、頬をほてらせて埋まっている、清原かつの顔を見た。見知らぬ乗客と、何か言い争っている三島由造の横顔も見える。かなり離れて、互いに頷き合っている、小西と関の顔も見た。
 彼と共に、山間の地に行くこれらの弟子を、戸田は、さらにいとおしく思った。おそらく、日々の家計のやりくりに大変であったろう皆の生活状態も、知悉している。いわんや、四日間の旅費の捻出の苦労は、並大抵ではなかったろう。
 ″わが一行は、姿こそ買い出しの人たちと同じだが、今は数少ない仏の軍勢である″と彼は思った。それを、誰一人、気づくはずもない。
 汽車は、さまざまな境涯の人を乗せて、進んで行った。

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