Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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歯車  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  四月からの、戸田の法華経講義は、月・水・金曜日と、定期的に行われるようになり、安定度を加えてきた。
 彼はまた、他の曜日は、各地で開かれている座談会に出席することに決めた。杉並の清原かっ、蒲田の小西武雄、鶴見の森川幸一などの家で、牧口会長以来の伝統の座談会が復活した。日曜日は、午後と夜の二回、開催され、戸田自らが出席した。
 戦後の混乱した状況下にあって、さまざまな団体が次々と名乗りをあげ、派手に活動を展開していた。そのうちの大半は、利得のための活動であった。
 宗教界も同じである。既成宗教は、あまりにも大きな打撃を受けたため、大した活動もできなかったが、新興の宗教は、瞬く間に行動を再開した。立正交成会(後の立正佼成会)、霊友会、生長の家、「踊る宗教」といわれた天照皇大神宮教などが、息を吹き返したように動きだした。
 戸田は、そんな現象には目もくれなかった。仏法の真髄を知らしめるため、教学を根本として、少数精鋭主義で歩を進めていた。彼の講義は、日ごとに力を帯び、輝きを増してきた。
 受講者たちは、いささか面食らっていた。牧口門下生であった彼らは、価値論で鍛えられ、そこから仏法に接近していたからである。今、戸田の講義には、価値論がさっぱり出てこない。いきなり、生命論である。色心不二の大思想論である。彼は、三世の生命を力説した。あらゆる例を引きながら、永遠の生命をわからせようと、真剣であった。
 みんなは、なかなか理解できなかった。ある人は、価値論の論理はわかるが、三世の生命はとても信じれないと言った。
 「信じられないか。それでは、どうしょうもない……」
 困ったものだな。価値論はわかるが、過去世という実在を信じられないのだな。過去世、現在世、未来――三世にわたる生命の厳然たる実在、これが仏法の根幹であり、究極なんだよ。これは信じるより仕方がない……。信じれば、一切が、そこから知解できるものだ」
 彼は、こう言って、しばらく口をつぐんでいた。やがて、子どもを諭すように、続けて言った。
 「価値論は、正法に入る導入部としての理論体系にすぎない。妙法を理解させるハシゴ段だよ。妙法それ自体を体得し、理解できなければ、全く意味がないのだ」
 戸田は、妙法の理解に関して、彼らとは大きな懸隔があることに気づいた。
 彼らは、価値論にとらわれ、そのため、大哲理である大聖人の生命論を従としている――彼は、を恐ろしいと思った。そして、法華経を読み切ることの必要を、さらに痛切に感じた。
 彼は、言葉をついだ。
 「大聖人様のおっしゃる通り、自行化他にわたる信心を、真面目に実践していけば、自然に信じざるを得なくなる。誰にでも、わかることだ。君たちも、必ずわかる時が来る。これが、生命の根本の法則なんだよ」
2  ここで、牧口常三郎の「価値論」という、哲学的発見について、簡単に述べたい。
 それは、ドイツの哲学者カント(一七二四年〜一八〇四年)の流れを汲む真・善・美の価値体系を、根本から覆し、「真なるもの」すなわち「真理」は、認識の対象であって、決して価値ではないことを明らかにしたものである。そして、牧口の新たに樹立した価値体系は、美・利・善である。なかでも価値の最大・最高なるものを「大善」に置いている。
 牧口は、価値とは、人間の生命と対象との関係性のなかで創造されるものであると説いた。さらに、人間生活の目的は、すべからく幸福の追求であり、すべては価値の創造、獲得にほかならないと述べている。
 そして、人が最高・最大の価値ある生活をするためには、主体である自己の生命の力を最高に発揮してこそ、最高の価値の創造が可能となる。それが、大善生活であり、そのためには、人間生命の力を最高度に引き出す真実の宗教が必要になる――と論じている。
 ここで、牧口の価値論は、日蓮大聖人の生命哲理と結びつかざるを得なくなり、価値論は、信仰という、人間の主体の根本的な問題に帰結していった。
 宗教とは、生活を律する根本であり、もしも誤った宗教を信仰していたならば、その人の生活は、必然的に反価値の生活に陥る。正しい宗教を根本とすれば、価値を創造する人生となる。幸・不幸は、無神論や精神修養も含め、人生の根本となる考え方、すなわち宗教によって重大な影響を受けるとして、宗教の高低、正邪の価値判断とそ、最も大事な問題であると訴えた。
 価値論から入って大聖人の生命哲理に行き着いた牧口は、その宗教活動では、座談会にも、「大善生活実験証明座談会」と名づけた。体験談は、日蓮大聖人の仏法と、それを裏付けとした彼の哲学の実験証明であったわけである。
 牧口常三郎は、死の一カ月前、一九四四年(昭和十九年)十月十三日付で獄中から妻に宛てた、現存する最後のハガキに、次のように書きつづった。
 「……カントノ哲学ヲ精読シテ居ル。百年前、及ビ其後ノ学者共ガ、望ンデ、手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居ル。コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文通リデス」
 価値論は、究極において、日蓮大聖人の仏法への信仰に帰着したのである。この世に実在する最大・最高の価値を追求して、結局、御本尊を信じ、信仰に励むことが、最高絶対の幸福と知ったのだ。
 価値論の哲学者として、牧口は、最高・最大の価値をもたらす本源は、南無妙法蓮華経にほかならぬと悟ったのである。
 確かに、その通りであったろう。
 美・利・善の価値体系が、人間の考え得る範囲の、最高極善の価値を理解せしめるものであることは、確かである。しかし、御本尊には、人間の思考をはるかに超えた、無量無辺、無限の仏力・法力がある。南無妙法蓮華経は、価値論のいかんにかかわらず、厳然と実在するのである。
 しかるに、これを価値という時、それは、観念的な価値論の範疇に閉じ込められてしまいかねない。
 戸田城聖は、恩師・牧口常三郎の価値論の論理を、こよなく愛していた。現代哲学の最高峰であるとも思っていた。その独創的な立論に、心から脱帽していた。だが、獄中にあって、大聖人の大生命哲理を覚知した今は、価値論という人工的な操作の限界を、知らなければならなかった。
 戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。
 そして、南無妙法蓮華経そのものから出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。
 今、法華経講義の受講者たちは、戦時中の価値論で武装した人びとである。即座に、戸田の胸中がわかるはずがない。彼らも生命論に面食らい、戸田も彼らを相手に困惑した。この壁を破るために、それからなお数年の努力と苦闘が必要であったのである。
3  第二期の法華経講義は、第一期と違い、酒宴に移ることはなかった。講義終了後は、さまざまな学会再建の話に花が咲いた。
 新しい息吹が満ちていたのである。組織の整備が、話題になることもあった。四散した同志の消息を、互いに確認し合ったりした。ある人は、地方指導の計画を提案した。
 こうして、歯車は回り始めた。三年近く停止していた歯車は、戸田城聖を中核の軸として、回転し始めたのである。
 五月一日には、創価学会として、第一回の幹部会を開催するまでになった。参加者は、三十数人にすぎなかったが、大事な歴史的幹部会となったのである。
 集合した同志は、人数の多少の問題よりも、戦前と同じく、信心の依処ができたことに、顔を輝かせていた。
 また、この日、中核メンバーの打ち合わせ会が開かれ、総務部、教学部以下九部の組織と、その責任者が決定した。そして、都内の四支部で、戸田を中心とする、座談会の日程が組まれた。
 戸田は、幹部会の終わりに、みんなに向かって言った。
 「今日は、ご苦労でした。これで、わが学会も実践の緒についたわけですが、これからが大変です。よほど心して、強盛な信心に立たなければ、いたずらに時代の波に足をさらわれてしまう。今は、日本の国始まって以来の乱世といってもよい。
 今日の、メーデーの様子を聞いてもわかるように、宮城前広場には、五十万の労働者が参加して、食糧問題の解決と、天皇制打倒を叫び、民主政権の樹立を訴えながら、喚声をあげている。
 幣原内閣が倒れて十日もたっているのに、次の内閣が、誰を首班として組閣されるか、それさえ混沌としている」
 彼のあいさつは、時に静かに、時に勇者の雄弁そのものであった。
 敗戦の辛酸は、これからさらに、われわれが、なめなければならないだろう。政局の不安定、生活の不安、経済活動の麻痺状態、本当に恐ろしい社会です。国に華洛のところなしです。
 だが、幸いにして、私たちは御本尊を受持している。経文にも、信心強盛の人のところ、我此土安穏と説かれている。なんで恐ろしいことがあろうか。
 さまざまな世情に、学会幹部は、一喜一憂して紛動されては断じてなりません。そんな心弱い、惰弱なことでは、広宣流布の大業を遂行することは、てできない」
 彼の表情は、次第に厳しくなり、言葉は、人びとの肺腑を突いた。
 「戸田城聖は、広宣流布のためには、一身を御本尊様に捧げる決意をしたのです。同じ決意を分かとうという人は、戸田に、どこまでも、ついて来てほしい。諸君のなかに、私と同じ決意をいだくことを欲しない人がいたら、今、即座に、この席から去ってほしい」
 室内は、異様な緊迫感をはらんで静まり返った。全員、ただ声をのんでいた。沈黙が、重苦しくなってきた。しかし、戸田の視線を避ける者はいなかった。
 「諸君、どうする?」
 戸田は、沈黙を破って叫んだ。人びとは、その声で、緊迫の空気から救われた。そして、一斉に元気な声で、口々に言った。
 「はい、やりますとも……」
 「先生、決して心配しないでください」
 戸田は、にっとり笑った
 「本当か?」
 「本当です、安心してください」
 「ありがとう。では、大いにやろう。何が起きても、びくともしてはいかんぞ」
 戸田は、いきなり上着を脱いだ。
 そして、片手を高くかざして、「同志の歌」を歌いだしたのである。
 目には、何を思うか、涙が光っていた。
 幹部一同も、声をそろえて歌った。
 二度、三度と歌い続けた。繰り返し歌ううちに、誰の胸にも戸田の決心が次第に感じ取れてきた。若い清原は、泣きながら歌っていた。皆の顔は、喜びと決意に紅潮し、尊い使命を自覚した顔になっていた。
 戸田は、歌い終わると、メガネを外し、ハンカチを、そっと目に当てた。
 散会して、戸外に出たが、誰一人、帰る人はいない。暗い歩道で、戸田を囲み、談笑して動かなかった。
 やがて、この一団は、何か朗らかに語りながら、水道橋駅へ向かって行った。この日の、昼間の五十万のメーデー・デモとは、桁違いの行進ではある。
 しかし、陰惨な影など全くない。時には、笑い顔さえ見せての、少数精鋭の行進であった。
 改札口で、戸田は言った。
 「みんな、元気だな。今夜は、デモ行進までやったじゃないか。家へ帰ったら、女房に言ってやれ。今日は、デモをやってきたぞ、とね!」
 わっと歓声が湧いた。明るい笑い声であった。
 人びとは、あいさつを交わすと、初めて上下線に別れた。
 彼らは、この夜から、事実上、歯車の一つ一つとなって動きだしたのである。
 五月二十二日、第二回の幹部会が開催された。実に小さな動きである。巨大な労働者のデモと比較すれば、原子や分子の動きにも似た会合であった。
 だが、出席者は、彼らだけに共通の、一つの気概を胸に秘めていた。それはまだ、世間の誰もが気づかないことではあったが、妙法の「広宣流布」という、崇高な使命をいだいていたのである。
 この夜、早くも新理事が三人、戸田理事長の名において任命された。蒲田の原山幸一、小西武雄、関久男の三人である。経済人グループの四人の先任理事を加えて、理事室は七人となった。
 第一回の幹部会から、二十日そこそこしかたっていない。この時までに、都内十カ所、地方五カ所の支部の布陣が出来上がり、学会の組織は、力強く一歩前進したのであった。

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