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日蓮大聖人・池田大作

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千里の道  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  わが国は、「豊葦原とよあしはら瑞穂みずほの国」といわれてきた。だが、一九四五年(昭和二十年)秋、米の収穫は驚くべき減収となった。政府は、戦中戦後の、さまざまな悪条件を加味しても、最低五千万石(七五〇万トン)の収穫を予想していた。ところが、実際の収穫高は、四千万石(六〇〇万トン)にも及ばず、最低予想をも割ってしまった。明治末期以来の大凶作である。
 食糧事情の見通しは、戦時中よりも、さらに、深刻なものになってきた。「恒産なければ恒心なし」といわれるように、国民の生活は、飢餓との戦いに、畜生道の様相を呈していった。おまけに、狭い国土には、敗戦と同時に、軍需工場から放り出された四百万の失業者があふれでいた。さらに、軍隊からの復員者、外地からの引き揚げ者を合計すれば、およそ千三百万の人びとが職を失い、生活にあえいでいた。
 この事実を、十二月初旬の、芦田厚相の発表で明瞭である。いや実際は、それ以上であったかもしれない。
 東京をはじめ、全国の主要都市では、飢餓による行路病者の死が、日を追って激増した。食糧輸入の道は、敗戦により途絶してしまっていた。
 「勝つためには……」と、戦時中は、無理な供出をしてきた農民も、国破れた今は、そうもいかなかった。需要人口は、日に日に増加し、前途は深い闇に覆われていた。
 何よりも、食糧の絶対量が足りないのである。食べ物の恨みほど恐ろしいものはないという。食物をめぐって、家庭内のいざこざが、あちこちに起こり、殺人騒ぎまで引き起こした。全国民が、ことごとく血眼になり、食糧の確保に、ただ狂奔しなければならなかった。
 戸田城聖は、これらの世相に心を痛めた。そして瑞穂の国が、飢えたる国になっている実相に、目を凝らしていた。
 彼は、考えた。
 ″もし、諸天善神がいたとすれば、敗戦という、国民にとって最大の不幸な事態にいたった現在、せめて豊作となって、われわれを守ってくれたはずだ。この悲惨極まりない状況は、天照大神も、諸天善神も、日本の国には、いなかった証拠ではないか″
 戦前、初代会長の牧口は、常々、神についての正しい認識を与えようとして、神を三つの視点から分類して教えていた。
 第一は、天地を創造したと考えられている神。第二は、祖先を神として崇めるもの。第三は、仏法で説く神である。
 そして、彼は、神についての人びとの考え方が混乱しており、また、権力者も宗教統一などという間違った考え方に陥っている状況を憂えていた。その混乱は、国家神道を根本として教育された結果にほかならなかった。
 戸田は、牧口の神についての分析を思い浮かべながら、さまざまに思索をめぐらせていった。
 神への崇拝という視点から、世界の宗教を分類すれば、多神教と一神教に分けられる。インドのヒンー教や日本の神道は多神教に分類され、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などは典型的な一神教である。
 森羅万象のさまざまな存在がもつ、不可思議な働きに神を見いだしたのが多神教とすれば、それらの働きを究極の存在に統一したのが一神教といえるだろう。
 戸田は、思った。
 ″いずれの神であれ、本質的には、人びとの生活に影響を与える、なんらかの働きを、人格化したものにほかならない。であるならば、これらすべての神々は、仏教に説かれる神の概念に含まれてしまうものではないか。
 日蓮大聖人は、「治病大小権実違目」に仰せになっている。
 「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり
 神は、人間の心がつくりだしたものであり、生命のもつ働きを具象化したものといえる。その働きが、人間生活に価値をもたらす場合には、梵天・帝釈という諸天善神としてとらえられ、悪をもたらす場合には、魔王と位置づけられるのであり、善悪両方の働きを、生命はもっているのだ。
 正しい教えに基づいて生きれば、その人生には価値が創造される。それが諸天善神の働きであろう。
 もし、誤った教えに基づいて生きれば、反価値を生じて人生に不幸をもたらす。それが魔王の働きともいうべきものだ。
 日本が愚かな戦争に驀進し、戦後も悲惨極まりない生活を国民に強いることになったという現実は、諸天善神が働かなかったということであり、その時代、社会に、正しい指導理念がなかったことを示している。善神が国を捨て去り、天に上っているとする、日蓮大聖人の「神天上の法門」とは、こうした現象を教える法理といえる……″
 戸田は、日蓮大聖人の仏法の真髄に触れて、初めて、このような生命の法理を悟ったのであった。真剣な唱題と思索によって、豁然と悟ったのである。
2  折も折、一九四五年(昭和一一十年)十二月十五日、GHQ(連合国軍総司令部)は「神道を国家より分離する」との指令を発した。これで、伊勢神宮も、靖国神社も、国家の保護を断たれ、私的な一宗教団体にすぎなくなった。日本国民の大半が考えもしなかったことに、GHQは手を打ったのである。
 GHQは、この神道の問題、すなわち国家神道が、明治以来、日本の政治体制の根本原理となっていた事実を突き止めていたからである。これが、今後の日本の民主化にとって、最大の障害になると見ていたのだ。物事は、常にその本質を論じ、見極めることが大事である。
 神道を国家から分離する指令が発表されるや、神官や神道の信奉者たちは、大きなショックを受けた。だが、一般の民衆は、それほどの衝撃は受けなかった。ただ、戸田城聖一人が、敗戦の悲哀を超えて、なおかつ、わが意を得た快事であると喜んだ。
 彼は、日本の国が敗戦の道を突き進んでいった足跡を、一つ一つたどってみた。そして神道が、明治初年の王政復古の礎石として利用されたことを、はっきりと再確認した。
 明治政権は、天皇の名のもとに国家統治を進めるうえで、国家統治を勧めるうえで、「神」をもち出した。天皇を神格化することが、最良の方法と考えたわけである。そのために、千年以上も昔に編纂された『古事記』『日本書紀』等の神話が、その権威づけの根拠として使われた。
 「葦原の千五百秋ちいほあきの瑞穂の国は、是、吾が子孫うみのこきみたるべき地なり。爾皇孫いましすめみまでましてしらせ。行矣さきくませ宝祚あまのひつぎさかえまさむこと、当に天壌あめつちと窮り無けむ」
 『日本書紀』に記された天照大神の神勅の一つである。後に学校教科書などでも、多く引用された一節である。
 天皇は、神の子孫だというのだ。日本は、天照大神の子孫が王となって、永遠に治めるべき地だとしているのである。天皇による国家統治の原理として、これ以上の武器はない。
 これらの神話には、もともとは、古代国家のはつらつたる息吹が込められていたかもしれない。しかし、それが、そのまま近代国家で天皇を絶対とする、国家統治の根拠として使われた時に、既に挫折への第一歩は始まったといってよい。
 政府は、神道と称するわが国古来の原始宗教を、祭政一致の古代社会にならって、新国家のなかに取り入れていった。
 全国の神社は、天照大神を頂点として、そこに祭られた神が、天皇に近いか遠いかで、それぞれ格付けされ、国家管理のもとに置かれた。先祖を神として祭る神道を使って、天照大神の子孫ということになっている天皇を、国民が崇めていくようにしたのである。
 一方、一八八九年(明治二十二年)に発布された明治憲法では、天照大神の神勅を根拠にして、天皇の宗教的権威を、「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」と、第三条で明確に条文化した。天皇を絶対化し、国家統治の権力の一切を天皇に帰することによって、国家の統一、安泰を図ろうとしたのである。
 こうして、天皇という一人の人格において、政治と宗教は完全に一致してしまった。この天皇崇拝は、やがて、天皇そのものを現人神あらひとがみとする「宗教」になっていくのである。
 ところが、近代国家として列強に伍するために、先進国の憲法にならって、明治憲法には、信教の自由を明瞭にうたわなければならなかった。
 それは第二十八条に、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定された。
 この結果、徳川時代以来のキリスト教禁圧や、封建的な数々の宗教政策は撤廃された。
 しかし、政府は、天皇の権威と一体の関係にあった神道に対してだけは、特別な政策を一貫して取り続けた。神社の格に応じて、国家子算をつけ、公費を支出、あるいは神宮・神職に、官位を与えて官吏とするなど、他の宗教と明らかに異なる扱いをしていた。また、皇室や国の式典は、天皇の威信を示すものとして、神道式の儀式が次々と定められ、これに参列するこっとは、一般官吏の義務とした。
 一九〇〇年(同三十三年)には、宗教一般を統括していた社寺局から神社を切り離して、新設の内務省神社局の管轄とした。
 こうして神道は、明治以来、他の宗教と区別され、国教的性格を強めていった。後に、国家神道といわれるものを、国家がつくりだしていったのである。
 これら神道を特別扱いする国家方針によって、程度の差こそあれ、やがて教育現場などでは、神社参拝が強制的な色合いを増していった。しかし、特定の宗教への礼拝を強要することは、憲法に照らし、矛盾をきたすことは明らかであった。
 なぜ、神道だけが特別扱いされなければならないのか。他宗教の信者にとって、神社参持の強制や義務化は、合憲か、否か――。
 「神道の国教的地位」と「信教の自由」をめぐって、仏教やキリスト教関係者などから、しばしば疑問が呈された。政府は、問題が起きるたびに、「神社は宗教にあらず」を建前にして、苦しい答弁を繰り返していた。
 「神社が宗教でないとしたら、いったいなんだ?」
 「神社は普通の宗教と違った性格をもっておりますので……なんと申しましょうか……、まあ、宗教以上のものと考えておりますような次第です」
 国会では、こんな珍妙な答弁が、政府側からなされていた。
 しかし、昭和に入り、軍部が政権に介入し、政治を左右する時代になると、この問題は日本国民のタブーとなった。国家神道に触れること自体、そのまま天皇への不敬として、治安警察に厳しく取り締まられ、軍部からにらまれ、過激な国粋主義者から狙われることとなっていった。少しでも疑問を差し挟む学者や言論人たちは、国賊のように非道な弾圧を被らなければならなかった。
 宗教各界もまた、弾圧を恐れて、国家神道に同調し、迎合するしかなかった。仏教界も、明治維新の王政復古の際に吹き荒れた、廃仏致釈運動の打撃からようやく立ち直ってはいたものの、信教の自由を賭して国家神道を糾弾するほどの勇気をもってはいなかった。
 それどころか、明治、大正、昭和と、天皇が絶対化されていく時流に乗ろうとした宗教家も少なくなかった。
 なかでも日蓮主義を標傍する田中智学ら国柱会は、進んで国家神道を宣揚する役回りを演じた。田中智学は、法華経、日蓮大聖人の法義を、皇室神話に結びつけて解釈し、唯一絶対の天皇が統治する神国日本こそ、世界統一の根本国であると喧伝していた。
 軍国主義者らがアジア侵略のスローガンとした、「八紘一宇」なる言葉を唱えだしたのも彼らである。
 彼らは、結果として、国家神道の巨大な影に、ひれ伏したのである。他の宗教団体の多くも、これと大同小異であった。
 やがて、中国大陸での戦火が拡大するにつれ、国を挙げての戦時体制が強化されていった。一九三九年(昭和十四年)、政府は、宗教団体法を制定し、すべての宗教を国家統制のもとに置き、強制的に各宗派を合同させるという暴挙に出た。宗教界はこぞって、天照大神を祭り、天皇を絶対とする挙国一致の報国運動に同調していった。もはや、そこには、宗教者としての信念の片鱗すらもうかがわれなかった。また、民衆も、それになんの疑問も差し挟まなかった。否、差し挟むことは許されなかったのである。
3  世界大戦に突入すると、国家神道を中心とした政治形態は、祭政一致の古代社会そのままに、神がかり的な全体主義の権力を、容赦なく国民のうえに振るい始めた。
 しかも、こうした権力が、戦争遂行のための思想統一を進め、無謀な侵略戦争に、一国を駆り立てていったのだ。それがやがて、破綻をきたしたのは、当然のことであった。
 権力が、宗教を手段として国民を支配する時、どのような悲劇を招いていくのか――戦前の歴史は、それを何よりも物語るものであろう。
 戦後の新憲法で、「信教の自由」を守るために、国家権力の宗教への不介入、中立性を定める「政教分離の原則」が明文化されたのも、その深刻な反省に立ったものであることは言うまでもない。
 戸田は、思った。
 ″「神国王御書」に「王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」とあるように、宗教の無知による誤りが、国家を死滅に追いやった。国民は、敗戦という冷厳な現実に、直面せざるを得なかったのだ。
 国は、もはや滅び去った。この最悪の事態に陥った不幸な時に、妙法が広宣流布できないなら、真の宗教とはいえない。仏語が真実ならば、必ず広宣流布は成就し、祖国を、民衆を救うことができるはずだ……。
 彼の体には、獄中で得た、あの不可思議な悟達の感動が脈打っていた。彼は、それをそのまま、なんとしても伝えねばならぬ使命を感じていた。
 ″それには、末法の御本仏・日蓮大聖人の教えに従って、人びとが妙法の五字七字を読み切れば、それでいいのだ。一切の未来への活動の源泉は、ここに、こんこんと湧いている。
 何よりも、生命の尊厳を、仏法によって本源的に知らしめねばならぬ。人間の生命ほど尊いものはない。その一人ひとりの生命を、事実の活動のうえに尊貴たらしめるためには、妙法の力によって、偉大な生命力を涌現させる以外にない。
 それには、仏法によって、大我の生命を開覚し、真実の人間復興をもたらす人間革命を、人びとになさしめなければなるまい。政治や教育、科学、文化等の華は、そのうえに、おのずから、咲いていくものだ。
 すべての基盤を人間に置き、最も人間性を尊重し、平和で幸福な新社会の建設を実現するのだ″
 これが、彼の信念であった。
 真実の民主主義は、単なる政治機構や社会体制の変革だけで、出来上がるものではない。何よりも、個人の生命の内側からの確立が出発点であり、土台となる。それが、次の時代の幸福生活への第一歩でなければならぬことも、戸田は鋭く見抜いていた。
 彼はまた、宗教に対する無知が、人類最大の敵であることを、胸中に深く確信していた。この無知の壁は厚く、高く、牢固として抜きがたく立ちふさがっていた。彼が、五カ月前までいた牢獄の壁など、この無知の壁からすれば、およそ取るに足りぬものであった。
 この無知の帰着するところ、国は滅びたのだった。国が滅びても、この無知から誰一人、目覚めようとしなかった。
 彼は、凛然と決意した。
 ″末法の仏法の真髄、日蓮大聖人の生命哲理を、この頑固な壁に、叩きつける以外ない。そして、広宣流布への第一歩の実践を、今こそ踏み出さなくてはならぬ。
 広宣流布達成まで、それが千里の道のように見えようとも、一歩一歩の前進を、決して忘れてはならない。この一歩の前進なくして、千里の道が達せられることはないはずだ″
 彼は、神道の国家的保護が消滅したこの時、前進の一歩を、力強く踏み出したのである。

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