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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  アメリカ占領軍は、当面の占領政策を実施したが、日本民衆からの抵抗は、全く起きなかった。あの太平洋上の島々での凄惨な玉砕、フィリピンや沖縄での徹底的な抗戦、神風特攻隊の想像を絶した死闘――このような、執拗で強力なエネルギーは、日本本土では、いったい、どこへ行ってしまったのか、と思えるほどであった。また、日本軍の解体も、一発の銃声を聞くこともなく進んでいた。
 彼らの常識的予想では、占領政策は、当初、激しい抵抗に遭うことも考えていた。ところが、なんの抵抗もない。
 ″これは、いったいどうしたことなのか!″
 彼らの目には、民衆は、打ちしおれて貧しく、ただ従順で、一切に全く無関心のように映った。
 長く続いた戦争に、人びとは、多大の犠牲を強いられ、疲れきっていた。そして、敗戦である。それまで、否応なしに国民を駆り立ててきたものが、すべて崩壊してしまったのである。
 人びとの心には、埋めがたい虚脱感が、精神的空洞となって広がっていた。皆、一寸先もわからぬ混乱した社会で、ただ今日を生きることに必死であった。
 もはや武力抵抗はない――。
 占領軍は、それを見定めるかのように、もう一つの占領目的である「民主化」の断行を、いっこうに腰を上げようとしない日本政府に迫ってきた。
 GHQ(連合国軍総司令部)は、一九四五年(昭和二十年)十月から十二月までのわずか二カ月間に、「民主化」の基本政策を、矢継ぎ早に指令していった。
 まず、十月十一日に、婦人への参政権付与、労働組合結成の奨励、学校教育の自由主義化、圧政的諸制度の廃止、経済機構の民主化――の五項目にわたる改革指令を、新首相・幣原喜重郎に示した。
 これらの基本方針に基づいて、十月末には財閥の資産凍結、十一月六日の財閥解体指令をはじめ、十一月十八日には皇室財産の凍結、二十五日には軍需会社への補償の停止等を命令した。
 さらに、十二月に入ると、九日に農地解放、十五日に国家と神道の分離等の指令を、次々と日本政府に発してきた。
 また、九月十一日には、戦争犯罪人いわゆる戦犯容疑者への本格的な追及も始まった。まず、米英などに宣戦布告した時の内閣総理大臣で、陸軍大将でもあった東条英機が逮捕され、さらに海軍大将でもあった嶋田繁太郎、外務大臣を務めた東郷茂徳など、軍部や政界の要人三十九人が、次々に逮捕されていった。
 その後も、戦犯容疑者への逮捕命令は続き、十二月に入ると、陸軍元帥であった皇族の梨本宮も逮捕され、さらに内大臣で昭和天皇の側近であった木戸幸一や、戦時中、首相を務めた公爵の近衛文麿にも及んだ。
 翌年一月四日には、公職追放令が発せられ、軍国主義、超国家主義に協力したとみなされた政財界人、官僚、言論人、教育者などが、各方面で公職追放となった。その人数は、二年間で約二十万人を数えるにいたった。
 これほどの短期間に、一国の政治が大変革されたのは、世界でもまれなことである。まさしく、政治革命そのものであった。しかし、残念なことには、自国の民衆の自発的な力で遂行した政治革命ではなかった。ことごとくが、他国の指導者によってなされた革命であった。
 敗戦という厳しい現実が、何よりも、これらの改革を容易にしたのである。敗戦によって、虚脱状態の極に置かれていた民衆は、これらの改革を切実に身に感ずるいとますらなかった。これらの指令は、次々と日本政府によって法令として立案され、実行に移されていった。
 戸田城聖は、この敗戦の現実を見て、国家の脆さというよりも、人間の脆さを知った。そして、誤った思想、誤った宗教が、どれほど人間を脆くするものであるかを、しみじみと感じた。
 いわば、日本全土で、長い間、狂奔した魔の力の総決算が、こんな姿で現れたのだと、彼は見ていた。そして、日本民衆は、今こそ、世界の平和を建設する新しい日本人としての自覚と反省とを、忘れてはならないと思った。同時に、民衆自身の骨髄をつくり上げねばならないと、その責務を感じてもいた。
2  絶え間なく動揺する、激しい変革に時期にあったが、戸田は泰然としていた。
 彼の手がけた事業は、日に日に向上線をたどっていた。
 一九四五年(昭和二十年)九月末になると、西神田の焼け残った一画に、一軒の売り家があることを聞き込んだ。彼は、直ちに調査し、即決して、それを買った。事業開始から一カ月半で、そのような余裕をもつにいたったのである。
 目黒駅に程近い、狭い土間の仮事務所から、十月半ばには、西神田の三階建ての新事務所に移っていた。やはり目黒駅の近くにあった戦前の事業の根城・時習学館が罹災焼失してしまったことは、戸田にとって打撃であった。しかし、西神田に移ってみると、その打撃は取るに足りぬことに思えるのであった。
 神田は、出版業界の一等地である。印刷、製本、その他、出版業務のすべてに便利な中心地であった。いつの間にか、その中心地に近づいたことに、戸田は気がついた。
 彼は、二階の南側の窓を背にして、社員たちに語り始めた。
 「どうだ、目黒から、この中央に進出することができたのも、偶然のように見えるかもしれないが、決して偶然ではないよ。わかるかい?」
 社員たちは、広い家屋に移って、ただ、もう浮き浮きしていた。
 「まったく、うまいところが見つかったものですなあ」
 奥村が、感に堪えないというように言った。
 すると、戸田は答えた。
 「こういうところに移ってこられたのは、日本正学館も、出版界で戦前以上の飛躍ができるという、何よりの証拠じゃないか」
 新事務所は、専修大学に程近い大通り沿いにあった。交通の便も、何かにつけて便利であった。目黒の事務所とは、大変な違いである。これまでの事務所は、電車通りに面していたため、電車の騒音が耳についていた社員たちには、気の抜けた思いがするほどの静けさであった。
 「まったく、功徳ですね」と言いながら、奥村は、新聞紙にくるんだ昼飯のふかしイモを、カバンから取り出した。
 「今日もイモかい。……イモは、あまり功徳とはいえんな……」
 戸田の言葉に、みんな、どっと笑いだした。
 「この事務所は功徳だよ。徒手空拳で始めた仕事が、二カ月たたないうちに、ここまできた。誰だって考えられないことだ。努力だけではない。この事務所も、御本尊様から頂いたものだよ。この建物が、今後どんな働きをするか、きっと、すごいことになるよ。みんな、大事に、きれいに使おうじゃないか」
 「はい……」
 事務員たちも戸田の言葉の表面上だけの意味はわかつて、返事をした。
 日本中は、殺気だっている。暗欝な一日一日であった。落ち着いて仕事のできる、自分たちの環境をもっている人は少ない。この時に、生活の心配もなく、良い環境に恵まれてきた社員たちは、なんとなく、すまないような思いがしていた。
 戸田は、新事務所に座ってみて、大きな展望を描き、思いを将来に馳せていた。事業のことばかりではない。言うまでもなく、学会の再建である。
 だが今、戸田の胸に描かれた学会の姿は、戦前の創価教育学会の最盛期のような規模とは、全く異なっていた。彼は、新時代にふさわしい、大きい、新しい構想、展開を描いていたのである。
 まず戸田は、創価教育学会の名称を、「創価学会」と変えることを考えていた。学会の目的、活動が教育界だけでなく、日蓮大聖人の仏法を根底として、政治、経済、文化等、全社会の階層に、希望と活力とを与えきることであり、その永久不変の大哲理を流布することを、決意していたからである。それには、東京の中心に位置するこの建物も、ひと役買うのは当然なことであった。
 戸田は、二階の畳敷きの三部屋を、しげしげと見渡した。八畳間と、さらに一回り狭い二つの部屋が続いていた。昼は、彼の事業の城であるが、夜は、やがて法を求め、広宣流布の第一線に働く地涌の菩薩が集って来るにちがいない。煤けた壁、手垢のついた柱、多少古びた畳も、広宣流布の産声を、八畳間と増築分の四畳半と三畳二間があり、ほぼ同じ広さであった。
 儒教思想を根底にした指導者・吉田松陰の感化を受けた青年たちは、それなりの大成を遂げた。久坂玄瑞をはじめとして、高杉晋作、伊藤博文等、彼らは、いずれも維新回天の大業に活躍し、今日にも、その名を残している。
 しかし、儒教を理念とする指導者たちのつくり上げた、明治以来の機構制度は崩れ去った。さらに、その精神的支柱も、全く力を失ったことが証明された。新しい時代に、新しい偉大な哲学理念をもって、新しい青年の立つ時が到来したのである。
 妙法の大理念をもった青年たちが、今度は、この部屋から、社会のあらゆる分野に、続々と巣立っていくであろうことを、戸田は強く確信していた。彼は、その様相を、まざまざと心に描いていたのである。
 戸田は、青年に強く期待をかけていた。自分が頼りにしていた壮年たちが、全部、退転したことで、それは、一層、強い確信となった。彼らが、実に利己的な考え方の持ち主であり、頼るに足らぬということを、いやというほど知ったからである。
 事務所にいる社員たちは、彼の深い決意、構想など知る由もなかった。ただ、社員として、それなりに社長につき、自分の仕事の向上に懸命ではあった。
 戸田は、それぞれ小机を前にしている社員たちに呼びかけた。
 「さぁ、これからが、大変な戦いになる。今までのような、子どもの遊びとは違ってくる。みんな、しっかり覚悟して飛躍するんだよ。それには、研究と勉強とを、お互いに怠つてはダメだ。いったい、どこまで自分たちが伸びられるか、精いっぱいやってみるんだな。いいね」
 「はい!」
 元気のよい返事が、煤けた天井に響いた。キラキラと目を輝かして、一人頷いている人もいる。口を固く結んで、頬を痙攣させ、緊張した表情の人もいる。戸田の言葉は、誰の胸にも力強く響いていった。
 彼の、ただならぬ決意が、自然に事業面の指導となり、社員の心にも、新たな息吹があふれた。数日すると、上大崎の事務所にあった、慌ただしい不安定な様子は影をひそめて、根を下ろしたような、着実な、生き生きとした雰囲気に、たちまち変わっていった。
3  西神田に移ってからは、日に日に訪問客が増えた。もちろん、事業関係の人びとも多くなった。しかし、それよりも注目すべきことがあった。今は、組織も崩壊している創価教育学会の会員が、ぽつぽつと姿を現してきたことである。
 それは、地方に疎開中で、まだ鳴りをひそめていた人びとではなく、戦時中も、東京の地で空襲と食糧難の過酷な生活に耐え、終戦を迎えた人びとである。
 そして、前例のない不安と、失望のなかで、その日、その日を、送っている人たちであった。
 終戦時の東京の人口は、三百四十万まで落ちていた。彼らは、そのなかにいた、わずかな学会員であった。ほとんど、会長・牧口常三郎の指導を受けていた人びとである。しかし、戸田とは、ちょっと面識があった程度で、親しく口をきいた人は、わずかしかいなかった。
 彼らは、誰からともなく、牧口会長の死を伝え聞いていた。そして、落胆のなかにあって、なお学会の存在を求めていたのである。牧口会長への信頼が強かっただけに、それに代わり得る指導者を、心の底で求めていたのであった。
 戸田理事長の健在を、風の便りに聞くと、居ても立ってもいられなくなり、戸田を訪ねる気持ちになったのであろう。顔と姿だけしか知らなかった戸田を、訪ね、訪ねて、やっとの思いで、西神田の事務所の入り口に立った人びとが多かった。
 「戸田先生は、おいででしょうか?」
 彼らは、階下の受付で、おずおずと尋ねた。それは、よれよれの軍服姿に、崩れた戦闘帽を頭に乗せている男性であったり、幼い子どもの手を引いた、戦争で夫を亡くしたらしい、もんペ姿の女性であったりした。
 「どなたですか?」
 受付の若い女子事務員は聞いた。
 「田上です。私の名を申し上げても、先生はご存じないでしょう。お目にかかればわかります」
 「…………」
 「もと学会員だった、と申し上げてください。私は、戸田先生の、お顔はよく存じ上げているのですが……」
 「ご用件は?」
 「はぁ、別に、これということもないのですが、ともかく一度、お目にかかりたいと思いまして……」
 「お待ちください」
 会社の忙しい仕事の合間に、戸田は、これらの人を二階に呼んで、話をするのが常であった。
 会って話をしてみれば、「別にこれということもないのですが……」どころの騒ぎではない。底知れぬ悲哀と、果てしない苦悩を、胸いっぱいにもっている人びとであった。迷い抜いた揚げ句、活路を求めてきた訪問者たちであった。
 「うーん……」
 戸田は、腕組みをして、折々、ため息にも似た声をもらした。そして、涙ながらに語る人の顔を、悲しげに見つめた。
 ことに、軍部政府の弾圧を恐れて退転していた人びとは、手のつけようのないほど、ひどい境遇に落ちていた。厳しい因果の実相を、あらためて見せつけられた思いである。
 戦前ならば、指導の通例にならって、罰だと、これらの人びとに厳しく悟らせたにちがいない。だが今、目前にするこれらの訪問者は、それも憚られるほどの悲惨な状態であった。彼らもまた、あいまいながらも、その罰を感じてはいたはずである。戸田は、口の先まで出かかっている罰論を、ぐっとのみ込むのだった。
 そして、笑みをたたえながら、諄々と指導していった。彼は、まず、御本尊の無量の功力を説ていったのである。真の功徳は、どのように偉大な冥益となって現れるか、利益論を真っ向から振りかざして、激励するのだった。
 彼の指導は、いつも確信に満ち満ちていた。罰の生活を、利益に転じようと決意させる力があった。聞いている人の頬は、見る見る赤みを増す。戸田の話を聞くと、暗く沈んだ彼らの心にも、希望の鐘が鳴り響くように思えるのだった。
 ――そうだ、毒を薬に変える力が、御本尊様にはある。信心さえ確かなら、何をくよくよすることがあるものか。
 戸田は、なおも励まし続けた。
 「大聖人様の教えには、絶対に間違いはない。大聖人様は、難に遭われた時、こうおっしゃっている。
 『我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし
 どんな目に遭っても、御本尊様を疑つてはいけない。疑わず、信心さえあれば、そのまま黙っていても、自然に、仏の境涯に到達できるのだ。絶対の幸福生活ができるとの仰せなのだ。みんな、今は辛かろうが、疑わず、ちゃんと信心さえ貫けばいいんだ。それによって、損するか得するか、一生の勝負が決まってしまう。どうだ、忍耐強くやれるかね?」
 戸田の言葉に、ある人は泣いていた。ある人は深く頷き、顔を上げてニツコリと笑うのだった。また、ある人は、「はい、やります!」と力強く応え、瞳を輝かせて、風呂上がりのような、さっぱりした顔をして席を立っていった。
 「また、困ったことが起きたら、いつでも訪ねて来なさい」
 彼は、席を立った人びとを見ながら、後ろ姿に呼びかけた。
 「はい、ありがとうございました」
 彼らは振り返り、丁寧にあいさっして、階段をコトコトと下りていくのだった。
 このような訪問者は、時を選ばずにやって来た。そのなかでも、最も頻繁に出入りするようになった一群があった。それは、戦前の学会幹部の経済人グループであった。戸田と長い年月、公私ともに親しい関係にあった連中である。
 戸田を中心として、かつて経済革新同盟クラブなるものを組織したことがあった。それは、教育者の多かった創価教育学会内における、経済人の一群であった。彼らもまた、戦時中、弾圧を受け投獄された者たちである。遺憾ながら、投獄を機として退転した幹部連であった。
 彼らのなかで、ある者は、御本尊を返却さえした。ある者は、学会と手を切って出征することを条件に、釈放になったりした。幸運にも投獄されなかった者もいた。しかし、彼らもまた、信心活動は牢獄への道と知り、その恐怖から退転していったのである。彼らの全部が、大聖人の仏法を疑い、身を潜めるようにして終戦を迎えた。
 彼ら退転組の理事たちは、七月三日の戸田の保釈出所を伝え聞いたが、終戦より前には姿すら現さなかった。彼らを弾圧した国家権力が崩壊し、占領軍が取って代わると、まず、彼らは、生活の再建に動き始めたのである。
 経済秩序の混乱期である。人びとは、生きることに血眼になっていた。あちらこちらと動き回っているうちに、いわゆるうまい話もないわけではなかった。彼ら経済人グループの理事たちは、戸田の事業の短期間における再建の話を耳にし、驚きを隠せなかった。

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