Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

占領  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  一九四五年(昭和二十年)八月三十日午後二時五分、ダグラス・マッカーサーは、早くも日本占領のため、アメリカ軍の輸送機パターン号に乗って、厚木飛行場に降り立った。
 二日前の二十八日には、先遣部隊として、通信・技術兵百五十人と、戦闘部隊の三十八人が、同じ厚木に着いていた。その目的は、マッカーサ一行の受け入れ態勢を整えることにあった。
 アメリカ軍が、厚木を指定してきたのは、この飛行場が、日本占領を開始するうえで、規模、設備、地理的条件などが最適と判断したからである。しかし、この指定のために、日本軍首脳部は、ひと苦労しなければならなかった。
 というのは、厚木の第三〇二海軍航空隊の隊員は、一億総決起を叫び、小園大佐の指揮のもとに、徹底抗戦の覚悟をしていたからである。この航空隊は、精鋭の戦闘機部隊であった。飛行場は、なんらの損害も受けていなかったし、戦闘力は十分に残存していたのだ。
 彼らは、ポツダム宣言受諾の動きを知って、憤激した。八月十五日正午の、天皇の詔勅放送の直後、内部の上級司令部に対して「……自今如何なる命令といえども一切これを拒否することを声明する」と発信した。
 また外部に対しては、十五、十六の両日にわたって、「国民諸子に告ぐ」と題し、「海軍航空隊司令」の名で「……天皇の軍人に絶対に降伏なし……ポツダム声明を承服することは……大逆無道の大不忠を犯す事なり」という内容のビラを、飛行機や自動車で撒き散らした。さらに、他の部隊にも呼びかけていた。いわば厚木航空隊は、反乱軍と化していたのである。
 航空司令部は、厚木航空隊の説得に手こずっていた。
 アメリカの最初の指定では、二十三日には、厚木へ先遣部隊が飛来することになっていたのである。
 したがって、日本の海軍首脳部は、一刻も早く事態を収拾するために、武力行使もやむを得ないと決定した。そして、厚木鎮圧のために、第一連合特別陸戦隊を用意するとともに、説得工作を続けた。
 二十一日になって、上層部の命令に従った隊員らは、厚木の飛行機のガソリンを抜いたり、プロペラを外す作業を始めた。
 ところが、事前にこれを知った飛行隊の三十三機が、厚木を飛び立って、陸軍の狭山、児玉の両飛行場に脱出していった。
 しかし、狭山に着陸した者たちは、勧告に応じて厚木に復帰し、児玉に降りた搭乗員たちも、徹底抗戦を断念し、東京警備隊に収容されたのである。
 厚木の兵士たちの復員は、二十二日から開始された。
 復員する隊員たちは、基地内の物資を持ち出し始めた。
 その混乱に乗じて、外部の民間人も、多数、地基に入り込み、手当たり次第に物資を持ち出していった。だが、誰もそれを制止することはできなかった。
 敗戦による飢餓が、人びとを醜い餓鬼道の行為に追いやったのである。わが国にとって、それは初めての経験であった。
 それでも二十三日には、復員も、どうやら完了して、厚木では、アメリカ軍の受け入れ準備に取りかかり始めた。
 小さな反乱は、厚木基地のほかにも幾つかあった。だが、いずれも説得され、鎮圧されていった。既に戦意は、完全に失われていたのであろう。
2  危険で、物騒だった厚木飛行場も、やっと平穏になった。そして、これらの動きには、全く無関心であったかのように、マッカーサーを乗せたパターン号は、銀色の翼を厚木飛行場につけた。
 百八十センチを超える長身のマッカーサーは、乗降口に姿を現し、タラップに足をかけた。大きな軍帽を目深に被り、カーキ色のシャツとズボンという軽装である。
 なんの武器も、身につけてはいなかった。サングラスをかけ、右手をズボンの後ろのポケットに当て、口にはコーンパイプをくわえていた。彼は、しばらくたたずみ、左右に目を配った。
 カメラマンたちのために、ポーズをつくることも忘れなかった。彼は、右手にパイプを握りながら、タラップを降りて、大地を踏んだ。ここに占領の第一歩をしるしたのである。
 この厚木飛行場には、三十日午前、先着していた第八軍司令官アイケルパーカー中将が、満面に笑みをたたえながら、マッカーサーを迎えた。
 「やぁ、ボブ。これで決着だね」
 マッカーサーは、低く響く声で、親しく中将に呼びかけた。
 スタイリストの将軍は、いささか得意であったにちがいない。終戦と同時に、連合国軍最高司令官に任命されていたのである。日本占領の一切の権限は、今、彼の掌中にあった。
 この新しい権力者は、ほとんど丸腰といってもよかった。だが、一見、大胆と見える彼の態度と行動は、実は、彼らしい計算のうえに成ったものであった。
 戦争は終わっている。彼は、戦争をするために来たのではない。今は、平和をもたらす将軍としての、鮮明なポーズをとる必要があった。
 彼は、記者団に声明した。
 「メルボルンから東京までは、長い道のりだった。長い長い、そして困難な道程だった。しかし、これで万事終ったようだ。……この地区(東京地区か)においては、日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当っているようで、降伏は不必要な流血の惨を見ることなく、無事完了するであろうことを期待する」
 ここには、勝利者の傲慢も、高圧な態度もなかったように思えた。
 一つの戦いには勝った。しかし、また次への戦いにも勝たねばならぬ。勝利のなかに、しばしば次の戦いの敗因が含まれている。
 マッカーサーは、そのことを、経験上、よく知っていたにちがいない。彼には、目下、今後の日本占領の方針、政策の決定、実行が緊急事であった。
 しかし、彼は、少々、面食らっていた。戦争の終結が、予測より早すぎたからだ。
 彼の作戦計画では、二つの本土上陸作戦を敢行することによって、戦争の決着がつくものと考えていたからである。それは早くても、一年以上先の、一九四六年(昭和二十一年)末ごろになると予測していたのだ。
 アメリカは、既に日本占領に備えて、軍事政府要員を、陸・海軍で養成していた。カリフォルニア州のモントレーには、要員の最終的な訓練をする民事問題訓練所などが置かれていた。そこでは、多くの軍人や民間人スタッフに、日本の各県の地理、産業、経済、政治等に関して、精密な学習、研究をさせていた。アメリカは、用意周到に、作戦を進めていたのである。
 マッカーサーは、広島の原爆投下の直前まで、アメリカが原爆を保有していることすら知らされていなかった。戦争が、予想以上に早期に終結した今、彼は、日本に対して、いかなる占領政策を行うか、完全な青写真をもってはいなかったのである。
 彼は、マニラから厚木までの飛行機の中で、思索をめぐらせた。ある時は、機内を行きつ戻りつしながら、コーンパイプを吹かし、構想を口述し、ホイットニー代将に書き取らせていた。
 それは、およそ次のような内容であった。
 「まず軍事力を粉砕する。次いで戦争犯罪者を処罰し、代表制に基づく政治形態を築き上げる。憲法を近代化する。自由選挙を行い、婦人に参政権を与える。政治犯を釈放し、農民を解放する。自由な労働運動を育てあげ、自由経済を促進し、警察による弾圧を廃止する。自由で責任ある新聞を育てる。教育を自由化し、政治的権力の集中排除を進める。そして宗教と国家を分離する」
 この時の構想は、以後六年間の占領政策の基本として、それなりの実現をみたといえよう。この機内での構想には、米国による敗戦日本の近代化促進という傾向が強かった。
 これは日本にとって、まことに幸いしたといえる。占領政策には、さまざまな問題点があったとはいえ、彼は、なかなかの理想主義者であったわけだ。仮に日本が勝ったとして、わが日本の将軍が、アメリカに対する占領政策を行ったとしたら、果たして、どのような事態を引き起こすことになったであろうか……。
 当時の日本の将軍たちと、欧米の将軍たちとは、残念ながら、およそ思考の次元が、はるかに違っていたようである。
 前者は、愛国心の隠れ蓑の中で、コチコチに軍国主義思想に凝り固まっていた。
 後者は、今世紀の二国にわたる大戦で、近代戦争が、勝者にも敗者にも、ともに大きな悲惨と悲哀をもたらすことを、何よりも身に染みて知っていた。
 戦争は絶対にごめんだ――当時、全世界の人びとは、切実にそう叫んでいた。マッカーサー自身も、その例外ではなかったにちがいない。
 大戦は、勝者にも多大な犠牲を強いた。敗れた者は、さらに惨めであった。そのうえ、強大な破壊力をもっ原子爆弾の出現は、戦争が人類文明の滅亡すら、もたらしかねないと、彼は感じ始めていた。
 激烈な大戦の教訓は、軍人マッカーサーにも、少なくともこの時は、今後の人類の繁栄のためには、どうしても戦争放棄しか道はないと促していた。
 戦争の殺伐たる余燼のなかで、この連合国軍最高司令官は、ひとつの野心をいだいていた。それは、ともかく今、彼の掌中にある日本という国を、民主的で平和を希求する模範の国につくり上げてみようということである。
 特に、彼の最初の二年間の占領政策は、理想主義的な色彩が濃く、この時の彼の青写真が、日本に幸いした面は少なくない。
 マッカーサーは、九月二日、東京湾に停泊中の戦艦ミズーリ号上で降伏調印式を終えたあと、次のように声明した。
 「私たちにはいま、新しい時代が訪れている」
 「戦争能力の破壊的な性格は、科学的な発明が着実に重ねられるにつれて、いまや伝統的な戦争の概念を修正しなければならないところまで進んできている。
 人類は創世期以来、常に平和を求めてきた。国家間の紛争を防止し、解決するための国際的機構を作ろうという試みが、各時代を通じていろいろな形で行われてきた。そもそものはじめから、市民各個人の間ではそういった有効な手段が作り出されたが、もっと大きい国際的な規模での機構はまだ一度も成功したことがない。軍事同盟も、勢力均衡も、国際的な連盟組織もすべて失敗に終り、結果はにがい戦争の試練によるほかはなかった。
 この戦争は、そのような試練に訴える最後の機会だった」
 「私たちが肉体を救おうと思うなら、まず精神からはじめなければならないのだ」
 全日本国民は、開闢以来の敗戦という現実に直面したのである。恐怖と、混迷と、不信のなかにあるのは当然であった。
 だが、この数日間のマッカーサーの言動から、戦争中、アメリカ人を鬼畜呼ばわりし、また、そう思い込んでいた気持ちは、たちまちにして薄れていった。敗戦は事実、悲しかった。しかし、戦争が終わったという安堵感は、日に日に増して、生きる歓びが蘇ってくるように思えた。
 ところが、多くの人びとは、物事を沈着に、自分で考えるという習性を、いつの間にか失っていたのである。新しい事態に対しては、まず好奇心が先に立つにすぎなかった。それよりも、大多数の国民は、産業が麻痺し、社会生活が狂いに狂ってしまったなかで、一日一日を、保身のために、おののきながら、食糧の確保という飢餓との戦いに没頭しなければならなかった。
3  戸田城聖は、新しいこの事態に直面して、今、たどっている日本の運命の推移を、じっと目を凝らして見つめていた。そして、日蓮大聖人の御書のなかにある、一つの予言書を思い返した。
 「有る経の中に仏・此の世界と他方の世界との梵釈ぼんしゃく・日月・四天・竜神等を集めて我が正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が人王・人民等の身に入りて悩乱せんを見ながら聞きながら治罰せずして須臾もすごすならば必ず梵釈ぼんしゃく等の使をして四天王に仰せつけて治罰を加うべし、若し氏神・治罰を加えずば梵釈ぼんしゃく・四天等も守護神に治罰を加うべし梵釈ぼんしゃく又かくのごとし、梵釈ぼんしゃく等は必ず此の世界の梵釈ぼんしゃく・日月・四天等を治罰すべし
 一国が正法を弾圧し、誤った教えを擁護し、さらにその誤った教えが一国に充満した時、その大罪を責めぬ守護神を、仏は梵天、帝釈等を使わして治罰する、という仏法の法理を、彼は知悉していた。
 ″マッカーサーという人物は、何者であろうか。この法理から見れば、梵天の働きをなす人、これがマッカーサーに当てはまる。それならば、彼は、将来の日本民族にとって、とりわけ正法護持の人びとにとって、マイナスをもたらす人ではない。なんらかのプラスをもたらす人であるはずだ″
 大宇宙の法則である仏法の鏡に照らし戸田は、そう確信しきっていた。
 この時、既に戸田は、ほかの誰よりも、マッカーサーという人物の本質を根本的に見抜いていた。以来、約六年にわたる占領政策には、さまざまな功罪はあった。しかし彼は、多方面にわたって仕事をこなし、一応、成功といってよい実績を残した。それは、韓・朝鮮半島における占領政策と思い合わせてみても、頷けるところである。
 マッカーサーは、厚木に到着した日、すぐに横浜へ向かった。横浜までの約二十五キロの道の両側には、マッカーサー一行の護衛のために、日本兵士が一列に並んで立っていた。天皇のために戦った兵士たちが、今は、異国の最高司令官を護衛しているのである。
 延々と続く完全武装の日本兵士の姿は、アメリカの将兵たちには、不気味な光景に映ったことであろう。だが、マッカーサーは、日本政府が調達した、何年製ともつかぬ古風なアメリカの高級乗用車リンカーンの中で、悠然としていた。
 横浜市は、戦災によって大きな被害を受け、建物の六〇パーセント以上が、灰燼に帰していた。そこにマッカーサーが来るのである。
 神奈川県庁と横浜市は、四日前の二十六日から、不眠不休の作業を続けなければならなかった。マッカーサーの宿舎となったホテルニューグランドや、総司令部にあてられた横浜税関ビル周辺の清掃だけではなく、占領軍の宿舎のための用地の準備も必要であった。
 多くの人が動員されて、その作業に従事したが、罪もないこれらの人びとは、何を考え、何を夢み、何を心に懐きながら、これらの奉仕のために体を動かしていたのであろうか。
 ともあれ、進駐の第日は、平穏無事に終わった。相模湾に集結していた数知れない連合国軍の艦船は、既に東京湾上に移動し、投錨していた。

1
1