Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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終戦前夜  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  終戦の年の五月七日、日本本土への空襲が熾烈を極めていたころ、ヨーロッパにおいては、ドイツが無条件降伏した。さしもの大戦も、終局を迎えつつあったのである。
 全世界の耳目も、ヨーロッパから、日本の戦局に集中し始めた。日本だけが、世界を相手に戦争を続行することになったからである。
 しかし、対日戦の主役は、依然としてアメリカであることに変わりはなかった。沖縄戦の渦中にあった六月、アメリカ参謀本部では、最終的な本土上陸作戦を着々と進めていた。
 その戦略は、一九四五年(昭和二十年)秋十一月、南九州の沿岸へ上陸し、翌四六年(同二十一年)春には、関東平野に上陸を敢行するというものである。その兵力は、硫黄島や沖縄で味わった日本軍の頑強な抵抗からみて、かつてない大規模なものが必要と考えられていた。しかも、この上陸作戦には、アメリカ軍は二十万近い死傷者を予測していたといわれる。
 ところで、四月十二日に、ルーズベルト大統領が急逝すると、連合軍側、とりわけ米ソ間の協調関係には、次第に影が差し始めていた。新大統領に就任したトルーマンは、対独作戦が終わると、米ソの対立の兆しを早くも読み取っていたのである。
 この年二月、連合軍の三巨頭、ルーズベルト、チャーチル、スターリンは、ヤルタ会談を行っていた。ここで、ルーズベルトの要望により、戦争の早期終結を図るため、ソ連は、ドイツの降伏から二カ月ないし三カ月後に、対日戦に参加することが、ひそかに取り決められた。
 ところが、トルーマンとその幕僚は、終戦間際のソ連の参戦を嫌っていた。単独の力で、対日戦を勝利に終わらせたかった。
 それは、戦後のソ連勢力の拡大を、少しでも抑制するためにほかならない。できるものなら、対日戦を、ソ連参戦前に終わらせることが理想であった。アメリカは、戦争終結を急ぎ始めた。
 今にして思えば、既に米ソの対立は、この時から兆し始めていた。彼らは、戦後の世界に君臨することを考えていたのであろうか。それは、言うまでもなく、大国の横暴というものである。人間は、権力の絶頂に上ると、皆、暴君的な一面をもつのと同じように、大国になればなるほど、いよいよ暴君的な色彩を増す。
 一方、日本は、唯一の和平工作を、ソ連を仲介とするルートによって、連合軍と折衝することを望んでいた。だが、参戦への時機をうかがっていたソ連は、この交渉には、当然、消極的であった。日本政府は、そのような事情を夢にも知らなかった。
 のみならず四月五日には、外交問題の工作に対する閣内の不一致と、小磯首相の陸相兼務の要請が、陸軍の反対で実現不可能に陥ったことから、小磯内閣が総辞職してしまった。
 同日、ソ連は追い討ちをかけるように、日ソ中立条約の不延長を通告してきた。
 次の鈴木内閣は、戦局の絶望状態から、和平工作に積極的となった。五月十一日、十二日、十四日と、三日間の最高戦争指導会議では、ベテラン外交官で元首相の広田弘毅が、対ソ交渉にあたることが決定した。
 しかし、ソ連当局は、話に乗ってこなかった。焦慮のうちに、いたずらに日時が過ぎていった。日本政府は、連合国の動静すら分析できずに、外交交渉をしていたのだ。日露戦争の時と異なり、今度の大戦でわが国の和平工作が、ことごとく失敗を重ねていったのも、当然なことであった。
 むろん、いつの時代でも、最高指導部による外交が大切なことは、言うまでもない。しかし、一切の基盤となるのは、民間人と民間人との交流であり、人間と人間の信頼の絆である。いわば鉄の鎖のように強い、心の結びつきである。この民衆次元の幾重もの交流こそが、平和の大河となるのである。
 戦時には、外交交渉の当事者が戦争の渦中にある。和平工作の糸口を見いだすためにも、民間の自然な結びつきが大事になる。だが、独裁的な軍部政府の圧力は、それさえ封じ込めてしまっていたのである。
 大本営発表は、国民をことごとく愚弄したものであった。「神風」を期待し、「神州不滅」を叫びながら、最末期に至ると、「本土決戦」「一億玉砕」を、ヒステリックに呼号するしか能がなくなっていた。
 その一方で、日本政府は、ソ連を仲介とした和平工作に工作に一纏の望みをかけ、こっそり、不手際な工作をしていたのである。国民を愚弄した政治や指導者が、長続きしたためしはない。国民を欺いての戦争政策は、自縄自縛に陥っていたのである。
 このようないきさつのなかで、七月二十六日、米、英、中の三国の名において、ポツダム宣言が発表された。
 従来の連合国の戦争終結方式は、国民全体に対しての無条件降伏要求であった。だが、ポツダム宣言は、「日本国民」にではなく、「日本国軍隊」に対して無条件降伏を要求するものとなっていた。
 そこに付された諸条件は、日本の軍国主義の駆逐と、日本の民主主義の確立を目的とする理念を根本にしていた。
 それは、軍国主義の除去、日本本土の占領、かつて侵略によって得た領土の返還、戦争犯罪人の処罰、日本国内における言論・宗教・思想の自由、基本的人権の尊重、軍隊の完全な武装解除、再軍備のための産業の破壊等々、具体的な条件を明示していた。そして、これを受諾しない限り、連合軍による迅速、かつ完全な破壊あるのみ、と結んであった。
 この宣言の具体性に、日本政府は面食らった。受諾とも、拒否ともつかず、指導者層は動揺した。対ソ交渉を待っていた首脳部は、意思表示を、しばらく見合わせることに一決した。
 また、政府は、報道機関に対しては、宣言の一部を削除し、抑えた扱いで、二十八日付で発表させた。しかし、国民の動揺は、覆うべくもなかった。
 徹底抗戦を叫ぶ軍部は、政府のあいまいな態度は、軍の士気にかかわるとして、鈴木首相に明確な意思表示を要求した。
 首相は、記者団に向かって、「政府としては、何等重大な価値あるものとは思はない。ただ黙殺するのみである。われわれは断乎戦争完遂に邁進するのみである」と、談話発表を行った。
 三十日の新聞に、この談話は掲載されたが、同時にラジオの電波は全世界に飛んだ。
 軍部政府は、ポツダム宣言を冷静に分析、理解する余裕すら失っていた。彼らは、自らの地位と面子の維持に、ただ汲々としているだけであった。戦争の終結方式に関して、彼らには指導理念などなかった。何もかもが、支離滅裂であった。いや、それよりも国民の実生活が、はるか以前から壊滅状態にあったのである。
 いつの時代にあっても、指導者階層は、常に冷徹な理性をもって、民衆の幸福と、平和への方向の分析を怠つてはなるまい。その決断に臨んでは、大感情を集中し、それぞれ命をかけて事に臨むべきであろう。民衆の利益を根本とした思索であれば、衆議も速やかに決しなければならないはずだ。
 日本が、ポツダム宣言の受諾を拒絶したことによって、アメリカ軍の空襲は、にわかに大規模となってきた。
 七月三十日には、アメリカ機動部隊から、延べ二千機が全国各地に来襲した。三十一日にも空襲は続いた。
 戸田城聖は、いくら空襲警報が鳴っても、防空壕には入らなかった。家族は、そのたびに防空壕に待避するよう彼を促した。しかし、彼は頑として動かなかった。豪胆というのではない。使命に立つ彼には、爆弾で死ぬということは絶対ないとの、強い確信があったからである。家族の待避については、彼は何も言わなかった。
 彼は、戦況については、一見、無関心のごとくに見えた。訪ねる人びととは、沈着に、そして独特のユーモアを交えながら、戦況について、世情について、日常生活について、さまざまに語り合った。しかし、心中には、来るべき時を感じていたのである。
2  八月に入ると、一日夜から二日にかけて、六百機にのぼるB29が、鶴見、川崎の工業地帯、さらに水戸、八王子、立川へも分散攻撃をした。また、遠く富山も、この日、空襲され、市は炎上した。
 五日夜から六日には、B29四百機が、関東では前橋に、関西では西宮と、本土全域にわたり、思うがままに蹂躙した。
 この八月六日、恐るべきことが広島に起きた。この日、この朝、人類史上初めて原子爆弾が実戦使用されたのである。わずかB29三機が、広島上空に飛来し、落下傘が空に浮かび、閃光が走った瞬間、広島は一瞬にして廃雄と化してしまった。
 その惨状は、この世のものとも思えぬ、地獄そのものであった。一発の爆弾が、非戦闘員である市民、二十万の死傷者を生んだのである。戦争を呪う声は、巷に満ちた。
 誰よりも、この事実に驚いたのは大本営であった。寝耳に水である。
 当初は、この強力爆弾が、なんであるかも理解できなかった。「広島へ、敵、新型爆弾」と発表された。数人の原子物理学者は、東京から広島に飛んで、調査の結果、原子核の爆発による最初の原子爆弾であることを証言した。
 この新型爆弾への対策として、防空総本部は十一日、「白衣を着て、横穴へ待避せよ」などと発表しただけであった。
 各新聞社とも、この日あたりから、社説などで、ポツダム宣言に、やっと触れだした。世論が、ポツダム宣言に徐々に耳をそばだててきたからである。
 トルーマン大統領の原子爆弾投下は、戦争の早期終結を狙ったものではあった。しかし、さらに深く考えてみると、必ずしも早期終結のため、ばかりでなかった。
 彼は、日本の敗戦が時間の問題であることを、百も承知であった。ただ、終戦処理にあたって、ソ連の発言権を封じることを考えていたのである。つまり、ソ連の参戦を見ることなく、勝利を収めたかった。そのためには、戦争終結を急ぐ必要に迫られていたのである。
 既にアメリカは、ポツダムで三巨頭会談が開かれた前日、つまり七月十六日に、原爆の実験に成功していた。
 対日戦を早期に終結させるとともに、戦後の国際政治で、ソ連に対して優位に立つ――それには、原子爆弾が一石二鳥であった。
 広島の一弾は、第二次大戦の終幕ではなく、米ソ冷戦の序幕の轟音ともいえた。その犠牲となったのが、日本であったのである。
 七百年前の蒙古襲来の際、日本は、攻撃武器としての火薬の洗礼を受けた。そして今、原爆という人類史を画する破滅的な兵器の惨禍を被ったのは、日本が世界で最初となった。
 この不運な宿命に思いをいたすならば、日本こそが、戦争のない平和な世界を、一日も早く現出しなければなるまい。われわれは、その崇高な使命をもつ一員であることを、強く自覚したいものだ。戦争だけは、今後永久に、断じて起こしてはならないのである。
 ところが、当時の軍部政府は、広島の一発だけでは、自分の国が、いかなる情況にあるかも気付かなかった。
 原爆投下のその日、トルーマンの声明が、ラジオで発表された。
 「われわれは、この科学史上最大の賭けに二十億ドルを投じ――そして、勝った。(中略)今やわれわれは、それがいずれの都市であっても、日本が地上に保有するすべての生産施設を、迅速かつ完全に消滅させる用意が整った。われわれは、彼らのすべての造船所、工場、そして、通信網を破壊するであろう。われわれは、本気である。われわれは、日本の戦争遂行能力を徹底的に壊滅させるであろう。
 七月二十六日に、ポツダムで日本に最後通牒を出したのは、日本国民を完全なる破壊から、救わんがためであった。しかし、日本の首脳部は受諾を即時拒否した。もし、彼らがこの宣言条項を受け入れなければ、かって地球上で経験したことのない滅亡の雨が、彼らの上に降り注ぐことになるであろう」
 原子爆弾があることを表明した、このラジオ放送を、日本の首脳部は、聞いていたはずである。だが政府は、単なる威嚇として、黙殺するほかに知恵はなかった。
 原子爆弾の第二弾は八月九日、長崎に落ちた。ここでも、一瞬に十数万の死傷者をみたのである。
 また、この日の未明に、ソ連は宣戦布告し、満州(現在の中国東北部)に侵入して来た。手薄な関東軍の戦線は、ひとたまりもなく総崩れとなった。
 この九日の午前十一時前、緊急に最高戦争指導会議が開かれた。
 原爆投下、そしてソ連の参戦は、軍部に深刻極まりないショックを与えた。これで、万事休したのである。望みを託していた和平工作の唯一のルートも、消滅してしまった。本土決戦を、あくまで呼号し続けてきた、その作戦も無に帰してしまった。
 というのは、元来、本土決戦の戦略は、ソ連の参戦がないものとして立てられていたからである。すなわち、日ソ中立維持を大前提としての作戦であった。これで、手も足も出ない状態となったわけである。もはや、道は無条件降伏に行き着くほかはなかった。
 この日の最高戦争指導会議で、初めてポツダム宣言の各条項が、真剣に検討された。それをめぐって、軍部と政府は対立した。
 外相案は、天皇の地位の保障だけを条件として、他の各項の一切を、のむべきであるとの主張であった。
 一方、陸相、参謀総長等は、さらに自主的な武装解除、日本人の手による戦争犯罪人の処罰、ならびに連合軍の日本占領に対する制限などを、条件とすべきであると主張した。
 最高戦争指導会議に続き、午後二時半から二回にわたって、臨時閣議が続けられた。そして、深夜十一時五十分に聞かれた御前会議で、外相案、つまり天皇の地位保障を条件とすることに、決定をみたのである。
3  この八月九日は、日本の運命を決する日となった。未明には、ソ連の参戦、午前十一時には、長崎への原爆投下、深夜に至って、わが国最初の、他国への降伏が決定したのである。惨めな敗北の日であった。
 翌八月十日、午前六時四十五分――日本は、中立国を介して、ポツダム宣言受諾を連合国側に伝える公電を打った。また、この日、その発表を、海外放送を通じて行った。そして「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」という条件を付した。この発表もまた、国民には知らされなかった。
 十一日付の朝日新聞には、情報局総裁の談話として「政府は、固より最善の努力を為しつつあるが、一億国民にありても、国体の護持のためには、あらゆる困難を克服して行くことを期待する」と掲載されていた。
 同じ紙面に「全将兵に告ぐ」として、陸相の激越な布告も載っていた。
 「事ここに至る又何をか言はん、断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ 仮令たとい草を喰み土を噛り野に伏するとも断じて戦ふととろ死中自ら活あるを信ず」
 国民は、二つの記事を同時に読んで、何がなんだか、わからなかった。ただ、非常事態が迫ったことは、直感せざるを得なかった。事実、史上最大の激動期に入ったのである。まさに国難であった。
 日本国の申し出に対し、連合国の回答は、ラジオで、十二日午前零時四十五分に傍受された。
 「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の制限の下に置かるるものとす」「最終的の日本国の政府の形態は『ポツダム』宣言にしたがひ日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」と、アメリカのバーンズ国務長官の名において通告してきた。結局、留保条件は拒否され、天皇の地位についての回答は、全くなかった。
 この回答をめぐって、十二日の閣議は、激しい論争が続いた。さらに十三日の最高戦争指導会議と閣議でも、その激論は結論が出ないまま、持ち越された。
 激論の主題は、徹頭徹尾「国体の護持」問題に絞られていた。受諾派は、護持できると主張した。抗戦派は、護持できぬと強く反駁した。
 「国体」という意義も、それぞれの主張する内容は、異なっていたにちがいない。ある人は、天皇主権の天皇制を意味していた。ある人は、極端な天皇親政と、とっていた。ある人は、明治憲法のうたった「天皇の神聖」から、天皇神格化を基本観念としていたのである。
 しかし、激しい論争の末、「国体」の観念は実質的な意味を帯びてきて、最後には、国体の護持とは、政治的な意味を離れた、天皇および皇室の存続という一線に落ち着き、かつ、これが彼らの最も大きな悲願であることに一致した。要するに、もはや戦争が終結の段階に入ったことを、認めざるを得なかったのである。
 八月十四日、最後の御前会議で、天皇の裁断というかたちで、無条件降伏は決定した。そして同日、午後十一時、遂にポツダム宣言無条件受諾の詔書が発布された。
 事こことにいたっては、後から何を言っても無意味である。だが、あえて言えば、それまでにも戦争終結の機会はあったが、軍部の暴走を抑え、和平への大英断を下すことができる指導者がいなかったのである。残念なことには、明治の名外相、小村寿太郎のような、命をかけて活躍する人物がいなかったのだ。
 また、陸軍と海軍との葛藤も、はなはだ見苦しかった。陸軍のある将校は、「敵はアメリカと、帝国海軍となり」と、広言して憚らなかったという。最初から、陸海軍に団結もなく、自ら敗因をつくっていたのである。

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