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日蓮大聖人・池田大作

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再 建  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  戸田城聖が出獄した一九四五年(昭和二十年)七月三日、政府は、遂に主食配給の一割減を発表した。もはや福運の尽きた国民の窮乏は、覆い隠すべくもなかった。
 配給基準量は、一般成年男子、一日二合一勺(約三〇〇グラム)ということになった。それも、主食の代替物の大豆、ジャガイモ、コーリャンなどを含めてであり、米の配給は、いたって少なかった。そのうえ、副食物の配給も、数日に一度、魚一切れ程度のものである。これだけで摂取できるカロリーは、一〇〇〇キロカロリーそこそこにしかすぎない。もはや、配給だけでは、成人男子の一日の必要カロリーの半分ほどということになる。
 国民は、ただ、じっと動かずにいるより仕方のない栄養価だ。動いたり、働いたりすれば、当然、それだけ栄養失調の症状をきたすわけである。栄養失調は、獄中にだけあったのではない。獄外にあっても同じであった。
 終戦直前から戦後にかけて、何よりもまず、日本には飢餓が迫っていたのである。それは、長引く戦争による生産力の低下と、米軍の海上封鎖などによってもたらされた、食糧の絶対的不足から起こった飢餓であった。
 国民は、体力の急激な消耗を自覚していた。
 どん底の生活は、人びとに極めてわびしい思いをさせた。誰も口に出しはしなかったが、民心は、既に、軍部指導層から離れていた。指導者が賢明でありさえすれば、よもや国民全体を塗炭の苦しみに落としはしないことを、人びとは本能的に直覚していたからである。
 このような情勢になっても、政府は本土決戦を呼号し、「一億玉砕」を国民に説き続けていた。だが、戦意は日に日に失われていった。さりとて、戦局をいかに転換するかという方針も、和平工作の具体的措置も、誰一人、持ち合わせていたわけではない。
 五月、ドイツの無条件降伏以来、敗戦は必至となった。米軍機は、全国の中小都市に、連日、空襲して爆撃を加えていた。だが、わが陸海軍は、ほとんど抵抗すべき戦力を失っていた。都市は爆撃で次々と焼かれ、本土の焦土化は、恐るべきスピードで進んでいた。
 軍部の本土決戦の態勢というのは、全国を兵営化することであった。陸軍は二月から五月にかけて、国内に四十個を超す師団を急設し、本土の防備兵三百万を計画し、全国に配置していった。
 しかし、新編成部隊のほとんどは、小銃はなく、銃剣もなく、丸腰の部隊であった。海軍も、艦隊のない海軍になっていた。そこで陸上兵力を増強し、海岸の防備にあたるしか、打つ手はなくなっていたのである。
 四四年(同十九年)には、既に徴兵適齢者を二十歳から十九歳に引き下げ、その若者たちの七割以上が徴集されており、翌年に入ると、それが九割になろうとしていた。
 成年男子は、障がい者や病人、老人を除いて、次々と動員されていったのである。
 これら武器なき大軍にとっては、壕を掘ったり、横穴を掘ることが軍事行動であった。戦地にあっては、未来を築く青年の多くが、次々と死んでいった。幾百万の家庭の平和も、根こそぎに破壊された。痛ましい荒廃の現実だけが残った。
 人びとは、愚かな指導者に率いられてきたことで、臍をかむ思いがしたにちがいない。しかし、もはや、どうする術もなかった。
 鉄壁の防備を誇った、沖縄も敗れた。物量を誇る米軍の、海陸空からの猛襲の前には、問題ではなかった。その組織的な戦闘は、四五年(同二十年)六月に終わってしまった。
 この戦闘で、全島は全くの焦土と化し、日本軍の死者は約十万人を数え、一般島民九万四千人(推定)も戦火を浴びて死んだ。非戦闘員であるべき老幼婦女子までが、砲火を浴びなければならなかった。徴用の女学生たちの「ひめゆり部隊」のような、数々の悲劇も生んだのである。
 幾多の悲惨残酷な出来事は、やがて来るべき「本土決戦」の暗い運命を、そのまま暗示するものでしかなかった。
2  このころには、日本全体が、国民の肉体も精神も、無力化していた。都市では、家屋財産を焼かれ、住むに家なく、焼け残ったわずかな家財を背負って、家族を引き連れて流転する人びとが、巷にあふれできた。彼らは、あきらめきった顔をしながら、時には驚くべき明朗さで、会話を交わしていたのである。
 「とうとう、私も、夕べやられましたよ」と一人が言えば、同類の、もう一人も答えるのだった。
 「おや、そうですか。私も、つい十日前に、何もかも、きれいさっぱり焼いてしまいました。ハッ、ハッ、ハッ」
 そして、煤けた顔を、汚れた手拭いで拭きながら、他人事のように語り合った。これが、せめてものいたわりであり、慰めであった。戦意喪失どころの騒ぎではない。
 国民生活の底辺には、既に虚脱の無風状態が続いていた。政府の「本土決戦」の叫びが、いかにも空しく響くだけであった。日本民族の総決算の時期は、刻々と近づいていたのである。
 日本の国土が、このような悪魔の運命を急ぎ足にたどっているさなかに、戸田城聖は、わが家で二年ぶりの一夜を明かしたのである。
 彼は、夜明けの空が白むころ、ふと目を覚ました。ガラス戸を開け放ち、夏の朝の冷たい空気を深く吸いながら、なおも床の上に長々と横たわっていた。ひっそり静まり返って、時の流れが、瞬間、止まっているような、ひと時であった。
 彼にとって、朝は大事な時間である。寝床の上で、眠りから覚めた冴えた頭で、誰にも煩わされずに、思索にふけったり、さまざまな構想を、とことんまで練る習慣が、彼にはあった。
 今、彼の頭のなかで、ものすごい速度で回転しているのは、ただ一つ「再建」ということであった。
 言うまでもない、学会の再建である。また、それを、まず可能にする、彼の事業の再建の問題である。
 彼は、獄中で、彼の事業が全く挫折していることを、既に承知していたが、その実態を知る由もなかった。徴兵適齢者の社員のほとんどは出征し、残った従業員の多くも、ほとんどが疎開していた。
 戦災を被った社屋、麻痺押した経済状況――これら数々の悪条件の積み重なった実態――それを彼は、知らねばならぬと思った。
 再建の糸口を握るためには、彼の数多い事業の、生々しい実態を知る必要があった。実態を知らないで、事業の再建は不可能であるからだ。
 戸田は、決めた。彼の事業の残務整理を、すべて委託してある、渋谷の弁護士を、直ちに訪問することにした。万事は、それからである。
 さっそく、彼は勤行をすませ、朝食が終わると、妻に夏服を出すようにと命じた。
 幾枝は、彼の外出を危ぶんで、盛んに反対した。
 確かに、彼の衰弱は、歩行をも困難にしていた。昨夜、豊多摩刑務所から自宅まで、二時間以上も要したのである。
 なんでまた、蒸し暑い日中に、出かけなければならないのか。どうして、それが今日で、なければならないのか。弁護士を自宅に呼んではいけないのか――幾枝は、さまざまな理由をあげて、頑強に反対した。
 しかし、彼の決心は、それ以上に頑強だった。
 「いや、行く。心配するな。大丈夫だとも。たくさんの書類が集まっているはずだから、家に呼んだのでは、埒は明かん。こっちから行って、なにもかも実態を調べてこなければ、どうしょうもないじゃないか。麻の洋服を出しなさい!」
 険悪な雲行きを察知した男の松井清治は、苦笑しながら言った。
 「幾枝、お前も一緒に行きなさい。休み、休み、ゆっくり無理をしないで行けばいいじゃないか」
 「ハッ、ハハハ……」と、戸田は笑った。
 「お父さん、幾枝は強くなりましたなぁ」
 「そりゃ、そうですよ。二年も銃後の女性でしたからね」
 幾枝の言葉に、戸田は、また大笑いをして言った。
 「銃後じゃないよ、牢後の女性だ」
 戸田は、麻の夏服を身につけて、驚いた。まるで他人の衣服のように、ぷかぷかである。
 パナマ帽を被ってみると、これは目までずり落ちた。丸坊主のためもあったが、頭まで痩せたらしい。
 日差しを考えて、幾枝はハンチングを出してきた。ハンチングの内側の鞣し革は、びっしりカビが生えている。幾枝は、それをキュウキュウと拭きとった。
 どうやら支度ができると、戸田は玄関に立って、靴を履きながら言った。
 「こりゃ、いかん」
 靴まで、ぷかぷかであった。だが、靴の代わりはなかった。幾枝は、しゃがんで、靴の紐をきっく締め直した。
 駆け足するわけではないし、これで結構、結構」
 戸田は、足をパタパタさせながら、無頓着に言った。
 久しぶりの外出である。彼には、遠足に行く小学生のような楽しさがあった。
 しかし、ステッキをつき、そろそろと一歩一歩、足を踏みしめて歩む彼の姿は、長期療養患者の歩行練習に似ていた。付き添うもんペ姿の幾枝は、看護婦に見えた。
 ――彼の再建の戦いは、こうして一日の空白もなく、出獄した翌朝から始まったのである。
3  戸田夫妻は、家を出た。街は廃墟である。身は重症であったが、彼には偉大な目的に向かって、たくましく生き抜こうとする、あふれんばかりの生命の躍動があった。
 残務整理の渋谷の弁護士は、十七の会社の実態を、一つ一つ説明し始めた。戦時下のための、開店休業どとろの騒ぎではない。全くの壊滅状態であった。
 弁護士は、難しい顔をして言った。
 「なんとも、お気の毒です。……なんとも、申し上げようもありません。実際、処置なしです。
 いやぁ、どこの会社も、こんな状態ですよ。国自体が、どうしょうもなくなっている。国家の残務整理は、いったい誰がやるんでしょうな」
 「わかりました。すると、全部ひっくるめて、損益は、どういうことになりますか」
 戸田は、結論を急いだ。国家の残務整理が、どうしたというのか。気休めの遁辞とんじは、どうでもよかった。今は、結論だけが必要である。冷静な数字だけを、まず知りたかった。
 弁護士は、束ねた書類を事務員に渡して、その総額を出すように命じた。事務員は、ソロバンをはじいて、一枚の紙に数字を書き込み、それを弁護士の机の上に置いた。弁護士は、しばらく、じっとその紙片を見つめていたが、黙って、それを戸田に回した。戸田は、メガネを外して、紙片を顔に近々と寄せながら読んだ。差し引き残高、二百数十万円である。
 戸田は、なおも数字をにらみながら、弁護士に言った。
 「これは黒ですか、赤ですか」
 「赤です」
 弁護士は、簡単に答えた。
 戸田は、つぶやくように言った。
 「二百五十万余りの借金か」
 巡査の初任給が六十円といわれていた時代の、二百五十万円である。膨大な額の借財である。
 側に付き添っていた幾枝は、それを耳にはさんだ時、思わず身震いした。
 戸田の二年にわたる無実の牢獄生活が、彼の事業に与えた総決算が、これであった。十七の事業のうち、再建に値する内容の会社は皆無であった。
 戸田は、帰る道々、怒りに燃えながら、黙々と歩いた。彼は、再建のためには、全く新規の事業を起こすよりほかに、道がないことを知った。しかし、資力もなければ手づるもない。人もいなかった。どんな事業かも、思い当たらなかった。
 二百数十万という負債に、彼は事業家として、深い致命傷を負っていることを自覚しなければならなかった。
 「心配するな。ぼくがいる限り、決して心配するんじゃないよ」
 戸田は、傍らで、うなだれで足を運んでいる妻に、いたわるように言った。
 絶望的な事態である。彼にはまだ具体案もない。だが、誰にもわからぬ一つの確信だけは、確かに胸中にあった。
 幾枝は、ふと涙ぐみそうになった。だが、彼女には、今は、戸田の目下の健康こそ心配の種だった。
 彼女は言った。
 「あなた、大丈夫? 当分、静養なさらなければ……」
 「体か? 良くなることはあっても、これ以上、悪くなるはずはない。大丈夫だ。これも心配するなよ」
 戸田は、ステッキを振りながら、毅然として言った。
 道行く人びとは多かった。戦災で焼け出され、皆、難民の姿である。彼らもまた、それなりの苦悩を、かかえていたにちがいない。一面の焼け跡の街は、狭く見えた。渋谷駅のプラットホームから見渡すと、代々木の原も、道玄坂も、代官山も、驚くほど近くに見えた。
 帰宅すると、警戒警報が鳴った。B29三機が誘導して、P51百二十余機が、鹿島灘から侵入しつつあり、とラジオは報道した。昼前であった。この日、米軍機は、茨城、千葉の各飛行場を狙って爆撃し、空襲は正午過ぎまで続いた。
 戸田は、翌五日の昼間は、ずっと家にいた。さすがに疲労は深い。彼は、寝床の上で、汗を拭き拭き体を休めたが、頭は、ますます活発な回転を続けていた。
 彼の傘下の社員や、社友とおぼしい年取った人たちが、一人、二人と訪ねてきた。仕事を失った人びとである。頼られでも、戸田が頼りにできる人たちではなかった。話も暗中模索であった。
 戸田は、深夜、一人で枕を抱えて思いあぐねていた。彼の思案の習癖である。彼は、ふと思いついた。
 ″通信教授を、やってみょうか″
 政府は、既に三月十八日、決戦教育措置を決めていた。そして、国民学校初等科を除く、学校授業の一カ年停止を、既に通達していたのである。
 小学児童は、集団疎開や縁故疎開で、東京にいない。ほとんどの中学生は、工場に動員され、学習の機会は奪われていた。しかし、少年少女たちの、若芽のような向学心を、戸田は長い経験から知っていた。
 戦争が、どれほど最悪になろうと、あるいは敗戦という事態にいたったとしても、ひたすら太陽に心を向ける無垢な少年たちの向学心を、彼は信じることができた。学問に渇いている少年たちの心を、彼は思いやった。
 ″渇ききっている心に、学問を送ろう。それには、現状において通信教授以外に方法はない″
 彼の着想は、見る見る固まっていった。
 ″人手も多くはいらぬ。自分で教案をつくることもできる。それにしても、当座の一応の資金と、開始する時期とが問題だ″
 彼の着想は、さらに細かい具体化に進んでいった。
 ″資金の調達を、いかにすべきか……″
 彼は、渋谷の弁護士が、笑いながら、昨日、言ったことを思い出した。
 「ここに、火災保険証が、これだけありますが、関東大震災の時のように、何割かは支払いがあるでしよう。もちろん、今すぐとは言えない。いずれ政府は、手を打つにちがいありません。いくらか希望がつなげるのは、この反古みたいな保険証書だけですね、ハッ、ハハハ」
 その時は、なんの気なしに聞いていた彼の頭に、今、ひょっこり、それが思い浮かんだのである。
 戸田の事業関係の建物で、戦火に焼かれた建物が幾棟かある。その保険金額は、十数万になるわけだ。戦争による火災には、保険会社は支払いの義務を負わないとしている。しかし、日本国中の焼失家屋について、政府は、なんらかの手を打たざるを得ないだろう。
 関東大震災の時も、震災による焼失家屋については、支払いの義務なしと主張し続けた保険会社もあったが、政府は、保険金の一部を支払うように、手を打たざるを得なくなっていったのである。
 戸田は、残った保険証書が、いずれ多少の財源になると思った。彼は、仕事を具体的に一歩進めようと、年来の友人・小沢清弁護士に、このことを相談することに決めた――ここまで思いたどったあと、彼は、昏々と眠りにおちた。

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