Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

黎 明  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
1  戦争ほど、残酷なものはない。
 戦争ほど、悲惨なものはない。
 だが、その戦争はまだ、つづいていた。
 愚かな指導者たちに、率いられた国民もまた、まことに哀れである。
 人びとは、八年に及ぶ戦火に、親を失い、子を失っても、その苦しみに耐えてきた。
 しかし、一九四五年(昭和二十年)七月ごろには、いつ米軍が本土に上陸するかわからないという重苦しい空気が、人びとの心を締めつけていた。
 七月三日、午後七時――。
 豊多摩刑務所(中野刑務所)の、いかめしい鉄の門の外側には、さっきから数人の人影が立ちつくしていて、人影の絶えた構内を、じっとみつめていた。かれこれ二時間にもなる。あたりは閑散としていた。周囲には、高いコンクリートの塀が、長々と巡らされていた。
 蒸し蒸しした一日が終わって、今、ひんやりとした風が、武蔵野の林から遠くそよぎ始めてきた。
 その時、鉄門の右の隅にある小さな鉄の扉から、一人の、やせ細った中年の男が、いそぎ足で出てきた。手には大きな風呂敷包みをかかえている。そのいそぎ足がもつれた。
 門の外に立ちつくしていた人影は、この時、なにやら鋭く口走ると、さっと駆けよった。
 「おお!」
 出てきた男のメガネが、キラリと光り、思わず立ちどまって、顔をあげた。
 「幾枝、迎えに来たのか。家は無事か」
 「焼けません。みんな元気です」
 「そうか。よかった、よかった。もう、心配するな。本当に苦労かけたなぁ」
 男は、いたわるように、妻に向かって言った。
 「叔父さん、お帰りなさい」
 「おお、一雄も来たか」
 「お帰りなさい」
 「おや、姉さんも来てくれましたか」
 出迎えたのは、妻、実姉と、その子の三人である。
 男は、浴衣の着ながしで、長身の体は瓢々としていた。風が裾を払った。瞬間、脛が現れたが、それは肉が落ち、か細い棒のように見える。笑いかけていた妻の幾枝は、はっと胸を突かれ、手を伸ばして、大きな風呂敷包みを、ひったくるように受け取ると、甥の一雄が、それに手を添え、受け止めるようにして肩に担いだ。
 「こりや、案外、重いや」
 四人の頬には、明るい笑いが浮かんだ。誰もが、一種の興奮に駆られている。言いたいことが、胸にぎっしり詰まっているのに、それがもどかしく、なかなか言葉にならない。四人は黙ったまま、高い塀に沿って、静かに歩きだしていった。
 二人の女性は、もんペ姿で、防空頭巾を肩に掛けている。青年は、鉄カブトを背中につるし、足にゲートルを巻いていた。いつ来るかもしれぬ、空襲に備えての服装である。この三人の先に立って肩を張り、足を運ぶ中年の男だけが、まるで風呂帰りのような浴衣姿で、異様に目立った。
 空襲に次ぐ空襲で、街は闇黒に等しい。
 いつか、夜の帳は下りていた。
 長い塀が切れて、右に曲がった。路上には、ほとんど人影もない。しばらく行くと、右側の家並みは続いていたが、左側はぽっかり穴の開いたように、荒廃した闇が、果てしなく広がっていた。言うまでもなく、戦災の焼け野原である。
 浴衣の男は、立ち止まって、確かめでもするように、闇をじっと見透かした。
 「ほう!」
 彼は、大きく息を吐くと、また歩きだした。
 彼は、これまでに、拘置所の独房で、高い小さな窓が、火炎の反射で赤く染まる夜を、幾夜となく経験はしていた。そのたびに、不気味な空襲のサイレンに耳をそばだて、戦争の推移に胸を痛めて、深い思いに沈んだものだ。
 だが、焼け野原を目の当たりにするのは、今夜が初めてなのである。
 既に、前年十一月、マリアナ諸島などを基地として、米軍機は都市への無差別爆撃を開始していた。その後、焼夷弾攻撃によって、五月までに、東京、大阪などの大都市のほとんどを焼き払い、さらに六月からは、連日にわたって、地方の小都市を空襲していた。
 この時まで、首都・東京と、その近郊だけで、約八十万戸の住宅が失われ、民間人の死傷者は十五万人に及び、約三百五十万の罹災者が巷にあふれでいた。空襲被害は、本土全体では、その三倍に達していたであろう。
 これらの詳細な事実を、彼は、もちろん知る由もなかったが、そのおおよそは直覚していた。
 彼は、道々、妻に向かって、親戚、知友の安否を、次から次へ尋ねだした。下町は、ほとんど全滅であることも知った。かろうじて、山の手の知人のうち、半数が助かっているにすぎない。しかも、その戦争は、まだ終わっていなかった。
 「こんな、ばかげたことを、いつまで、やっているんだ!」
 彼は、吐き出すように、誰に言うともなく、激しい口調でつぶやいた。その声は聞に消えたが、彼の怒りは燃え盛っていたのである。
 ″戦争をやって、誰が喜ぶか! 平和と幸福への願いは、人びとの共通の念願であるはずだ。
 ところが、近代日本の歴史は、十年に一度といってよいほど、国運を賭しての戦火に突入し、そのたびに多大な犠牲を払って、甚大な不幸に見舞われてきた。この日本の運命を、なんとか転換できないものか……″
 この時、彼の胸中に去来していたものは、当時、戦争の渦中にあった人びとの感慨とは、全く隔絶していた。
 彼には、獄中にあっても、罪の意識など、あろうはずはなかった。なんの悔恨もなかった。反省も必要としなかった。
 軍部政府はいかにも愚劣で、狂信的で、わが同胞に対してすら暴力的で、不条理であった。そのような狂信をもたらしたものの根源が、軍部政府の精神的支柱であった「国家神道」にほかならないことを、彼は、骨身に染みて熟知していたからである。
 彼は四十五歳になっていた。入獄前は二十数貫もあった。いまは十二、三貫もない。
 この出獄は、戦時下の一未決囚の、平凡な保釈出所の風景と人は思うかもしれない。しかし、この浴衣の着ながしで出獄した、坊主頭の中年の男こそ、戸田城聖その人であったのである。
2  戸田城聖の恩師である、創価教育学会の会長・牧口常三郎は、死によってこの門を出た。彼は、今、この門を生きて出たのである。
 そして牧口も戸田も、共に人類の平和と幸福を実現する広宣流布の一念には、なんら変わりはなかった。師弟不二、生死不二なればこそ、宗教革命の血は、脈々と受け継がれていたのである。
 戸田は何よりもまず、復讐の念に燃えていた。しかし、軍部政府に対して、政治的な報復を企てようとするのではない。老齢の恩師・牧口会長を獄において死にいたらしめ、彼自身を、二年の間、牢獄で呻吟せしめ、彼の肉親をかくも苦しめ、また幾千万の民衆に塗炭の苦しみを与えた、目に見えない敵に対して、その復讐を心に固く誓っていたのである。
 およそ不幸の根源は、一国の政治や、社会機構の形態だけで、決定できるものではない。より本源的には、誤った思想や宗教によるものである。
 戸田は、この日蓮大聖人の鋭い洞察が、寸分の狂いもない真実であることを、身をもって知った。しかし、それを今、初めて知ったわけではない。戦時下において、牧口常三郎を会長とし、彼が理事長であった創価教育学会の、熾烈な戦いは、この深い信条から発していたのである。
 獄に入っても、戸田の信条は、破れはしなかったが、彼の戦いは、時に利あらずして、ひとまず敗れたことを、いやでも知らなければならなかった。
 彼は、ふと立ち止まった。心にうずくような痛みを覚え、息が弾んだ。
 街には、焼け跡特有の、すえた、きなくさい臭いが、かすかに漂っている。彼は、そろそろ歩きだした。早稲田通りである。灯火管制下の家並みは暗く、舗装道路だけが、かすかに白く浮き上がっていた。
 しばらくして右に曲がると、突き当たりが中野駅である。プラットホームの遮蔽された灯が、遠く点々と目についた。あとは電車に乗りさえすればよい。左側の石垣の上に、乱れた草が茂っている。彼は、草の上に腰を下ろした。
 「ひと休みしていこうじゃないか」
 彼は、息を弾ませて、家族に呼びかけた。
 「よいしょっ」
 甥の一雄が、真っ先に大きな風呂敷包みを投げ出した。
 「叔父さん。こりゃ、なかなか重いですね」
 「うん、本が入っているからね。久しぶりに勉強できたよ」
 戸田は、こう言いながら、脇腹の辺りを、ぼりぼり掻いていた。
 「手拭い、ないか?」
 妻の幾枝が、手拭いを渡しながら、その傍らに座ろうとすると、戸田は、からからと笑いながら言った。
 「あんまり側に寄ると、お土産が移るぞ」
 「………?」
 「シラミさ、わが血を分けたシラミさ。かわいいもんだよ」
 幾枝が、びっくりして飛びのくと、どっと笑い声があがった。
 戸田は、汗ばんだ額や、首筋を手拭いで拭きながら、ほっと一息ついた。
 彼は、独房での拘束の日々から逃れ、今、この路傍で、しみじみと自由の空気を、胸深く吸っていた。なんと甘い空気であろう。それは、二年ぶりの味であった。
 涼しい風が頬をなでる。道行く人びとは、せかせかと過ぎていった。闇にうずくまる四人を、気にかける人もいない。
 夜空は、遠く広がっていた。星も見えない暗い空であった。
 だが彼は、自分の心に、灯の赤々と燃えているのを意識していた。誰も、その灯に気づくはずはない。彼には、今、それを人に伝える術もなかった。
 その灯こそ、独房でともされた灯であり、もはや、彼の生涯にわたって消えることのない灯である。
 彼は、今、娑婆の風にあたっても、その灯が揺らぐこともないのを、ひそかに確かめた。彼は、満足であった。
 「こりゃ、ひどい」
 彼は、顔や手足に襲ってくる蚊を払いのけながら、腰を上げた。
 「さあ、行こう」
 四人は、中野駅に向かって、ゆっくり歩きだした。
 駅も、電車の中も薄暗かった。男の乗客は、申し合わせたように、戦闘帽を被り、足にゲートルを巻き、ある人は鉄カブトを、ある人は防空頭巾を、肩から掛けている。そして、数少ない女性の乗客も、みんな、もんペ姿で、防空頭巾を抱えていた。
 このような服装の群れのなかへ、一人の浴衣がけの男が、ひょっこり現れたのである。刺すような視線が、一斉に彼に集まった。浴衣姿という、夏の最も平凡な風体が、彼らの目には、極めて異様に映ったのである。
 それは、戦時下という、時代そのものの異様さにほかならなかった。しかし、乗客たちは、自らの精神状態の異様さには、さらさら気づかず、この痩せた一人の男に、咎めるような、とげとげしい視線を一斉に放っていた。
 ″この非国民め……″と、言わんばかりの表情なのである。
 戸田城聖は、そんな空気には、いささかも頓着しない。彼は、電車の中でも、街のなかでも、いつも庶民と共に生きていく指導者であった。
 ″庶民は、雑草のようである。しかし、雑草も生えない野原に、草木が生い茂り、果実が実るはずもない。庶民の強靭な生き方には、時によっては、哲人や宰相にもない、人生の真実が含まれているものだ……″
 戸田は、そう思いながら、痩せた首筋を伸ばし、磊落な調子で、しきりに隣の乗客に話しかけていた。
 古ぼけた鍋や洗面器を、膝の上に大事そうに抱えている五十がらみの元気な男が、五月の夜の大空襲の模様を、彼に、しきりと話していた。
 「地獄の炎だって、あれまででしょう。夜が明けたら、一面の焼け野原です。そして、焼け跡のあちこちに、防空壕だけが残ったわけですよ。うちの防空壕は、ちょっと頑丈に造ってあったので、親子四人、そこで暮らしている始末です」
 戸田は、その乗客の話から、ふと、一九二三年(大正十二年)の関東大震災を思い出していた。彼が、北海道から上京して、三年が過ぎた時である。
 東京の下町は、九月一日から三日未明まで燃え続けた。そして一枚の毛布、一本の大根でさえ、貴重品となった当時が蘇ったのである。彼は、まだ二十三歳の青年であった。四日目の朝、飲んだ味噌汁の味が、この世の最高の珍味として、今も忘れることができなかった。
 彼は、びっくりした表情で、その乗客に聞いた。
 「あの震災の時の火事みたいなものですか」
 「いや、いや、とんでもない。あの三倍ぐらいの大火事で、五倍ぐらいの恐ろしさですよ。あなたは、どこから、おいでになったんです?」
 「私ですか……」と、戸田は言いよどんだ。
 彼は、豊多摩刑務所にいたとは言わなかった。
 「いや、ちょっと、青梅の方に疎開しておったもんですから……」
 「そうですか。私は、震災の時も焼け出されました。これで二度目です。人生に二度も焼け出されるなんて、かなわんですよ。しかし、震災の時は、相手が地震でしょう、腹の立てようもない。
 今度は、戦争でしょう。考えりゃ、癪に障るやら、ばかばかしいやら、精神的に、いちばんこたえますね。軍部は、いったい、どうするつもりでいるんでしょうね。こんな調子では、まるで大人と子どもの喧嘩じゃありませんか。まったく…」
 乗客は、そう言いかけて、急に口をつぐみ、怯えたように辺りを見回した。
 戸田は、なおも話しかけたが、その乗客は、ただ相槌を打つだけで、無愛想になってしまった。警察や、憲兵の耳を警戒し始めたにちがいない。
 電車は、新宿駅に入り、戸田の一行は、山手線に乗り換えた。戸田は、誰彼となく、身近な人びとに、盛んに話しかけていった。ここでも人びとは浴衣がけの男に奇異な感をいだいたが、その屈託のない口調にほだされて、罹災の模様を、こまごまと語る人もあった。
 電車が原宿駅に来た時、車中の人びとは、突然、一斉に右側の窓外に向かって最敬礼をした。戸田が、窓の外に眼を凝らすと、繁った木々が見えた。明治神宮である。
 彼は、心につぶやいた。
 ″宗教への無知は、国をも亡ぼしてしまった。
 「神は非礼を稟けたまわず」と、大聖人は仰せである。正法を尊ばずして、諸天善神の加護はない。しかるに軍部政府は、正法を護持する牧口会長を、獄において死にいたらしめてしまった……″
 彼の表情は、にわかに憂いを帯び、沈痛になった。彼は口をつぐんで、窓外の聞に広がる、暗い焼け野原に視線を放っていた。
 その闇のなかで、民衆は、ただ恐怖と、絶望と、多くの負担を肩に担いながら、うごめいている。耐え忍び、追い詰められた民衆の心の行方を、彼は、しきりと思った。
3  戸田城聖という民衆の指導者の名は、今日では、多くの人が知っているが、当時は、彼の名を知る人は、ほとんどいなかった。その名は、創価教育学会の折伏活動によって、希代の悪法であった治安維持法違反の容疑や、不敬罪に問われた刑事被告人として、当局などに知られているにすぎなかった。
 治安維持法は、終戦直後、マッカーサー指令によって廃止になり、多くの思想犯は無実の人となったが、この法律が廃止されたために、以来、国の治安が危殆に瀕したということは、一度も起きなかった。悪法の悪法たるゆえんである。
 共産党弾圧のためのこの立法は、無数の故なき罪人をつくった。法律が罪人を製造し、無実の人びとの一生を、取り返しのつかない破滅に追いやる。治安維持法による犠牲者は、どれほどの数に上ったことか。
 一九二五年(大正十四年)に公布されたこの法律は、次第に、ただ軍部政府を守るための弾圧法と化していった。一握りの階級を守るための立法が、どんなに不条理で、どれほど多くの不幸と苦悩をもたらしたことか。すべての立法の意図を、われわれは、あらためて吟味する必要がある。
 信教の自由が、憲法に保障されていたにもかかわらず、この悪法のために、会長・牧口常三郎は、獄中で死ななければならなかった。理事長・戸田城聖は、二年余りで保釈出所はしたものの、身は栄養失調という状態であり、彼の全事業は挫折してしまっていた。なんと矛盾したことであろうか。
 考えようによっては、獄中よりも獄外にこそ、悪人が多くはびこっていた。
 一国の前途を憂え、民衆の側に立って戦った人物が獄につながれる一方、民衆を不幸に陥れた指導者が、そのまま生き長らえる現実ほど、この世の不条理はない。社会の正邪、善悪を測る基準が、まるで正反対になっていたのである。
 いったい、人間をほしいままに裁く資格が、誰にあるだろうか。人間が裁かれるとするならば、それは普遍の法によってであり、権力者の自分勝手な考えによって裁かれるべきではない。その人間の気ままな心を制御するために法律があり、裁判制度がある。
 しかし、法律も制度も、人間が解釈し、運用するものであるから、その時代・社会の底流に、永久不変の根本的な原理が確立されていない限り、公正な裁判は望むべくもないだろう。

1
1