Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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詩聖・杜甫の像に寄す 我は歌う

2003.12.19 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  さっと真っ赤な布が下ろされると、会場からどよめきが起こった。
 姿を現したのは、「詩聖」と仰がれた、中国の大詩人・杜甫の像であった。
 十一月二十九日、八王子の創価大学本部棟で行われた、中国作家協会・中華文学基金会から私への、「理解・友誼国際文学賞」の授与式でのことである。
 私は驚いた。美事な「戦う詩人」の造形であった。
 彫りの深い顔。光を放つがごとき眼差し。結んだ口元にとがった顎ひげ。五体に渾身の力がみなぎっている。
 ブロンズ像の杜甫は、筆を握る右手を、あたかも宝剣で風を切り裂くような、すさまじい気迫でふるっていた。
 その筆先から飛び散る墨滴から、悠遠なる詩の宇宙が、不滅なる言論の闘争が広がっていく――まさに詩人の沸騰する詩魂が、鮮やかに刻印された傑作であった。
 制作者の王克慶氏は、長崎・平和公園の「乙女の像」の制作にも尽力された高名な彫塑家(ちょうそか)であられる。私は心から感謝を捧げたい。
 この「杜甫の像」は、神戸の関西国際文化センターで開催中の「池田大作詩歌書画撮影展」で、展示させていただいている。
 この展示会と、私への文学賞のことが、中国の国営ラジオ放送局のホームページで紹介されたと伺った。
 「このたびの展示会は、中日文化交流の一大盛事として永遠に歴史に残りゆくであろう」などの評価をいただき、恐縮している。
 授与式の謝辞でも言及したが、杜甫の像には、彼の有名な詩句が刻まれていた。
 「筆落つれば風雨驚き詩成れば鬼神泣く」〈「筆落驚風雨 詩成泣鬼神」〉
 これは、流罪の境遇にあった友人の詩仙・李白を讃え、励ました言葉であるが、杜甫の偉大な詩業も、また同様であったといってよい。
2  青春時代、敗戦後の焦土を生きた私には、杜甫は親しい心の友であった。
 「国破れて山河在り
 城春にして草木深し……」
 有名な「春望」は遠い昔の情景ではなく、国破れた日本の現実として、熱く胸に染み通ったものである。
 師から私への個人授業であった「戸田大学」でも、よく漢詩を学んだ。
 「大作、何か暗唱してみなさい。杜甫がいいな」
 突然のお話に窮したこともあった。私は、かろうじて、若き杜甫が名高い「泰山」を仰いで作った詩の一節を朗詠した。
 「胸をうごかして曾雲そううん生ず……かならず当に絶頂をしのぎて一たび衆山の小なるを覧るべし」(泰山に雲が湧けば我が胸は動かされる……いつか必ずあの山頂を制覇し、周りの山々を足下に見渡そう)(「望嶽」、『続国訳漢文大成』文学部4所収、東洋文化協会)
 おのが天職たる「文章」を磨き、使命の高嶺を極めてみせるとの大望である。
 「青年らしい詩だな。青年はかくあれだ。夢は、うんと大きく持つことだ!」
 そう言われた先生の笑顔が忘れられない。
3  杜甫は、唐代の玄宗皇帝の治世が始まった七一二年に生まれ、数えで五十九歳の波瀾の人生を送った。
 かの李白より十一歳年少である。直接、顔を合わせての交友は短かったが、生涯にわたる友情を結んでいる。
 さらに、王維、高適こうせき岑参しんじん……いずれも『唐詩選』に多くの詩を残す詩人とも麗しい友情を重ねている。いかなる「友情」の歴史を残すか。そこに人間性の偉大さが光るのだ。
 彼の前半生に、唐の繁栄は頂点に達し、都の長安も国際都市としてにぎわった。
 杜甫自身、この地で十年余を暮らしている。
 私は初訪中の折、長安の歴史を伝える、陝西省の省都・西安を訪問した。貴重な遺跡を歩きつつ、絢爛たる文化の都を偲んだのであった。
 また、先年、西安の西北大学から名誉教授の称号を、西安市からは栄誉市民の称号を頂戴した。文化・教育交流で万代の日中友好の金の橋を架けゆく決心は、いよいよ深い。

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