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日蓮大聖人・池田大作

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「美の殿堂」富士美術館 文化の勝利が開く 平和の大道

2003.11.19 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

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1  「非常なる勇敢というものがなければ、美は無いのだ」(『ドラクロアの日記』中井愛訳、石原求龍堂)
 これは、フランスの大画家ドラクロワが、一八五〇年に書き留めた言葉である。
 その通りだ。いな、美に限らない。わが人生を名画のごとく、赫々と荘厳しゆく原動力もまた、「勇気」である。「非常なる勇敢」である。
 この同じ一八五〇年、嵐に挑む勇気を満々とたたえた大傑作が、ロシアに誕生した。
 かのドラクロワが“海の風景画の巨匠”と讃えた、アイヴァゾフスキーの「第九の怒濤」である。今、八王子の東京宮士美術館で、「第九の怒濤展」が、絶讃の渦を巻き起こしながら開催中である。
 私も過日、鑑賞した。魂を揺さぶられた。その感動を詩に綴り、わが友に贈った。
 わが東京宮士美術館の開館二十周年を飾るにふさわしい展覧会となった。国宝ともいうべき名作をお貸しくださった国立ロシア美術館をはじめ、ご関係の方々に満腔の感謝を捧げたい。
 ところで、この「第九の怒濤」が、日本で最初に展覧されたのは、二十六年前のことであった。初公開の一翼を担ったのは、私が静岡に創立した富士美術館である。(=同美術館は二〇〇八年に閉館。所蔵品は東京富士美術館に統合された)
2  私は、戦争の悲惨さを体験した一人として、戸田先生と出会った十九歳の時から、「『文化国家』をつくるしかない。戦争の悲劇から精神的に立ち上がるのは、文化しかない」と思ってきた。
 「芸術は人々をたがいにちかづけ、結合させる」とは、私が青春時代に愛読した、ドイツの大詩人ヘルダーリンの信念であった。
 芸術は「理解の力」である。
 芸術は「友情の力」である。
 ゆえに、芸術は「平和の推進力」なのである。
 日本の象徴の秀峰「富士」の名を冠する、東京と静岡の富士美術館は、これまで、三十カ国・地域と「美の交流」を重ねてきた。
 世界各国から、国宝級の名画をはじめ、絢爛たる美を紹介する海外文化交流展は、約六十回を数える。
 美術館が所蔵する日本の伝統美術や西洋絵画などの名品を海外で公開する展覧会も、フランス、オーストリア、ブラジル、中国、韓国など二十一カ国・地域の二十八都市で開催してきた。
 この活発なる「美の往来」そのものが、平和への決意であり、平和の証である。
 平和と文化交流は、深い次元で一体であるからだ。
 争いが増えれば、文化も荒み、時代は暗い破壊の方向へ落ち込んでしまう。
 芸術の交流は、その悪の連鎖に立ち向かっていく精神の武器であると、私は信じ、行動している。人類は、いかなる暴力にも屈してはならない。
 あの二〇〇一年の九月十一日。アメリカで世界中を震憾させた同時多発テロが起こった。航空機をハイジャックしての未聞の蛮行であった。
 実は、この時、東京富士美術館では、翌月に開幕する「女性美の五百年」展の準備に追われていた。
 「女性の世紀」を謳い上げゆく、画期的なテーマの展覧会である。
 “ロシアのモナリザ”と呼ばれる名画「見知らぬ女」(トレチャコフ美術館蔵)をはじめ、フランスのルーブル美術館、イタリアのウフィツィ美術館等々、五十四の美術館などの代表作、約二百五十点が、絢爛と一堂に会する運びとなっていた。
 だが、テロの発生により、各国から、「飛行機で作品を運ぶのは危険」と、出品を危ぶむ声があがった。開幕一カ月前である。船便では、もう間に合わない。
 しかも、当時、人びとの間には、「テロという破壊的な力を前に、文化、芸術の力は、あまりにも無力ではないか……」と、暗澹たる絶望感が漂っていた。
 そこには「文化」と「野蛮」との戦いの縮図があった。
 テロや戦争は、武力や暴力などの力で「外から」人を押さえ込もうとする。
 それに対し、芸術や文化は、人間性の発露であり、「内から」人を解放する。
 この戦いの勝敗を決したのは、美を愛し、文化の使命に徹しゆく人びとの信頼と情熱、そして勇気であった。
 美の至宝を受け入れる、東京富士美術館のスタッフたちは、懸命に訴えた。
 「テロという邪悪な力が、人類を分断しようとする今だからこそ、国境を超え、文明を超えて、心と心を結ぶ文化交流を断じて進めさせてください!」
 しかも、行おうとしているのは、平和と文化の天使たる女性の美の競演である。
 真摯な呼びかけに、各国の美術館の方々も、誠実に応え、連帯してくださった。
 「甲冑を着たジャンヌ・ダルク」などの傑作を出品された、オーストリアの宮廷家具博物館のパレンツァン館長は、力強く言われた。
 「私たちが希望を捨てることは許されません。文化の交流以外に、いかなる選択肢があるでしょうか!」
 こうした、各国の関係者の心が結集して、「女性美の五百年」展は、当初の予定通り開催することができた。
 それは、まさしく「文化の力は野蛮に負けない」という勝利宣言となったのである。
3  思えば、二十年前(一九八三年)、東京富士美術館の出発を飾ったのは「近世フランス絵画展」である。
 ドラクロワの圧巻の大作「ミソロンギの廃墟にたつギリシャ」(ボルドー美術館蔵)など、数々の秘蔵の名品の展観は、私の尊敬する親友ルネ・ユイグ氏の支援なくしてはでき得なかった。
 ナチズムの魔手に抵抗し、ルーブル美術館の至宝を守り抜いた文化の戦士が、ユイグ氏である。その不屈の魂を、私はいつも胸に刻んできた。
 一九九三年の二月、私は、南米のコロンビア共和国を初訪問した。
 東京宮士美術館のコレクションによる「日本美術の名宝」展の開催などのためである。
 その直前、アメリカのマイアミに滞在していた私に、コロンビアの大統領府から、緊急の連絡が届いた。
 「池田会長は、わが国に本当に来てくださいますか?」
 この直前、麻薬組織による爆弾テロで、多くの犠牲者が出たばかりであった。
 コロンビアで予定されていた、ある国際会議も中止された。出国する報道関係者も多かった。
 私の訪問も見合わせるようにと、周囲からは止められた。しかし、私には、断じて果たさねばならぬ信義があった。それは、この三年前、東京富士美術館主催の「コロンビア大黄金展」に尽力してくださった大恩である。
 この折、至高の輝きをもった黄金細工や、世界最大級のエメラルドの結晶原石など、国の宝を、多数、惜しみなく貸し出してくださった。
 答礼の意味も込めた日本美術展は、コロンビアの方々への友情の証であった。
 私は、大統領府に伝えた。
 「私のことなら、いっさい心配はいりません。予定通り訪問させていただきます。私は、最も勇敢なるコロンビア国民の一人として、行動してまいります!」
 訪問した私たちを、ガビリア大統領夫妻をはじめ、コロンビアの方々は、心から歓迎してくださった。
 友人が一番大変な時に応えてこそ、真の友情である。それがまた、真の文化だろう。

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