Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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弟子の道 使命の道

2003.11.6 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  師は厳しかった。
 あまりにも厳しかった。
 師は優しかった。
 あまりにも優しかった。
 私は、師の残した一言一言を、すべて遺言であると、毎日、胸に深く刻んだ。
 ある日、戸田先生は言われた。
 「大作、野良犬が吠えるような、いかなる罵倒や非難があっても、決して動ずるな! そんな、つまらぬことに、決して紛動されるな!
 英雄の道を歩むのだ。偉人の道を歩むのだ。
 私たちの信奉する大聖人の難から見れば、すべて九牛の一毛に過ぎないのだ」
 そして、先生は、「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし」との「開目抄」の一節を拝された。
 私は、わが師匠のご生涯を、青春をなげうって、お守り申し上げた。一心不乱に、あらゆる迫害に次ぐ迫害のなかを、お守り申し上げた。
 師は、厳しくも、全生命に響きわたるような愛情をもって、常に私を励ましてくださった。
 それは、「大阪事件」の時である。
 「お前が牢獄に行って倒れたならば、わしは、その上に、うつぶせになって、一緒に死のう」と涙ぐんで言われた。師とは、かくも深くして偉大なものかと、私は涙を流した。
 事業が大失敗した折には、先生は死をも覚悟で再建にあたられた。
 私は、師を守るために、青春の全生命の限りを尽くした。すべてを犠牲にして、お守りした。
 給料も貰えなかった。進学の道も、師のために捨てた。一家も犠牲にした。
 しかし、師と共に苦しみ、師を守る喜びに、永遠の誉れの炎が燃え盛っていた。
 先生は、亡くなられる半年ほど前から、「私は、教えるものは、もう全部、大作に教えた。多くの弟子が忘れ去っていこうとも、大作は絶対に忘れない」と語っておられたようだ。
2  それは、私の義父母と学会の首脳数人が先生を囲んだ、厳粛な語らいの時であった。
 「大作は体が弱いのに、これほどまでに、学会のために、師である私のために、命を削り、言語に絶する奮迅の努力をしてくれた」と落涙されたのである。
 さらに先生は、胸を患い、寄せ襲ってくる病魔と闘う私のことを思い、慟哭されていた。そして、「三十歳までしか、生きることはできないだろう」と寂しそうに語っておられた。
 事実、私自身も、壮烈なる戦いを展開し、敵を打ち返しながら、師の前で死んでいくことが無上の喜びなりと決意していた。
 若き妻は、師の心も、弟子である私の心も、みな清く、深く、読み取っていた。
 彼女の祈りの勤行は、続いた。静かに夜中に起きて、幾日も幾日も、丑寅の勤行をしてくれた妻。 私が知らずに、ぐっすり休んでいると思って、妻は、そっと起きて祈りを重ねていた、そのいじらしさよ。
 師弟の道も、厳然としていた。夫婦の決意と愛情の深さも、厳然としていた。
 先生の生活まで、私の給料で支えた。師は、その心を知っておられ、いつも「小さい家で、かわいそうだ」「私のために、本当に健気だ」と言っておられたようだ。
 「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず
 甚深の、あの「華果成就御書」の一節である。
3  人類の頭脳ともいうべき、アインシュタイン博士は語った。
 「古来から偉大な精神はつねに凡庸の徒からはげしい反対を受けてきた」(金子光男『ラッセル』清水書院)
 まったく、その通りだ。
 「あの汚き中傷は愚劣漢の言葉だ」と軽蔑して言い切った友がいた。
 「立ち遅れている精神世界の、わが国における嫉妬と負け惜しみの仕業は、百鬼夜行の如くなり」と嘆いた文学者がいた。
 それぞれの時代に、それぞれの暗い歴史もあるが、人生を生きゆくうえで、今ほど荒涼たる、殺伐たる、哀れな時代はない。ともあれ、勝ち誇って進むことだ。
 大聖人は断言なされた。
 「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」と。

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