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日蓮大聖人・池田大作

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忘れ得ぬ市ヶ谷の分室 「一人」の励ましから常勝の前進を

2003.5.24 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  現在、私が、ゴルバチョフ元ソ連大統領と開始した新しい対談も、有意義に進んでいる。
 過日は、元大統領が総裁を務める財団の新しい建物にも、ご招待をいただいた。
 「小さな建物ですけれども、ぜひ、おいでください」
 私は真心に感謝しつつ、申し上げた
 「建物ではなく、そこで戦う人間こそが拠点です。
 人間が偉大であれば、建物の大小など関係ありません」
 即座に、あの会心のゴルビー・スマイルが返ってきた。
 青葉が光っていた。
 水面が光っていた。
 街並みも光って見えた。
 五月の太陽が輝く先日(二十三日)、聖教新聞社の首脳との協議を終え、外堀通りを車で走り、市ヶ谷周辺を回った。
 市ヶ谷を通るたびに、「懐かしい。懐かしい」と口に出る。ここは忘れ得ぬ師弟の古戦場だ。戸田先生が、この拠点で指揮をとられた日々が、鮮やかに思い出される。
 一九五一年(昭和二十六年)五月の末──戸田先生が第二代会長に就任されて間もなく、先生が顧問を務め、二十三歳の私が若き営業部長として奮闘していた会社の事務所は、市ヶ谷駅の近くに移転した。
 お堀端に立つ、三階建ての市ヶ谷ビルの一室である。
 それまでは、同じ新宿区内でも、レンズ製作の工場跡のわびしい事務所であっただけに、新天地での新たな挑戦の開始に、若き胸は躍った。
 当時の日記に綴っている。
 「前進──なんと若々しい、未来を含んだ言葉であろうか。私は、生涯、名実共に、使い、実践してゆこう。
 前進──この言葉の中には、成長がある。希望がある。勇気がある。若さがある。正義がある」
2  小さな小さな市ヶ谷の事務所から、世界的な広がりのある創価の陣列をつくるのだ!
 嵐また嵐のなか、師弟不二の戸田先生と私の決意は、凛然としていた。
 市ヶ谷ビルの二階フロアに、私たちの会社の事務所があった。
 この場所が「戸田大学」の教室ともなった。毎朝、仕事を始める前に、戸田先生が個人教授で、大学教育でも及ばぬ万般の知性の訓練をしてくださったのだ。
 大事な職場である。私は日ごろ、ビルの内外でお会いする方々とも、青年らしく元気よく挨拶を交わした。人間の交流は、気持ちのよい挨拶から始まるからである。
 ビルの前に、植えの行商をする植木屋さんがよく見えていた。私は「いつも、ご苦労様です」と声をかけては、時折、花を買ったものだ。職人気質のこの方も、最晩年まで、私との出会いを宝としてくださり、麗しい交流の花が咲いた。
 二軒先にあった市谷食堂では、毎日のように食事をした。時には、お茶だけ御馳走になり、慌ただしく失礼したが、食堂の方は母娘して大変に親切で、温かかった。
 その時、お世話になった食堂の娘さんから、昨年、嬉しい、お便りをいただいた。
 学会の友人に誘われ、東京戸田記念講堂での会合に出席されたとのことであった。「聖教新聞」も、長年、購読してくださっている。
 私は、亡くなられた、お母様の追善をさせていただき、謹んで一首をお贈りした。
  青春の
    思い出多き
      市ヶ谷の
    日本一なる
      食堂懐かし
 「市ヶ谷」という地名の由来には、古来、この一帯に市が立って「市買」と呼ばれる売買が行われたという説や、起伏に富む山手台地にあって、第一の谷(一谷)があったという説などがある。(東京都新宿区教育委員会編集・発行『新宿区町名誌』、参照)
 市ヶ谷ビルには、「聖教新聞」の編集室も置かれた。
 さらに、当時の学会本部は西神田にあったが、その本部の「分室」も、このビル内に併設された。いずれも二階の部屋である。
 分室は、わずか四、五坪の広さである。突き当たりの窓際に、戸田先生が座る机とイスがあり、その前に七、八脚のイスが置かれていた。
 ここで、先生は、毎日午後二時から四時過ぎまで、訪ねてくる会員の指導・激励にあたられたのである。
 市ヶ谷ビル全体の受付をされていた女性が、今は三鷹にお住まいである。過日、地元の婦人部のメンバーに当時の思い出を語ってくださった。
 その方は、訪れる人の多さに目を見張ったという。
 「創価学会は、どちらでしょうか‥‥」。こう言って受付の前に現れる姿は、どちらかというと、悩みを抱えて、傍目にも痛々しい感じの人が少なくなかった。
 しかし、受付の方がさらに驚いたことは、その同じ人たちが、帰途につく時には別人のように笑みを浮かべ、生き生きと、ビルを後にしていったというのである。
 小さな病院の待合室よりも質素な部屋であったが、この分室こそ、まさに庶民の″希望の港″となり、″蘇生のオアシス″となったのだ。
 「人間にとって立派な友人の励ましほど/苦しみを癒す薬は他にない」とは、古代ギリシャの詩人エウリピデスの名言である。(『エウリーピデース断片』久保田忠利訳、『ギリンア悲劇全集』12所収、岩波書店)
3  わが師は、訪れた友に、気さくに語りかけられた。
 「どうした?」
 その温かい声と、眼鏡の奥に光る慈眼に、同志は心から安堵し、率直に悩みをぶつけるのが常であった。
 悩みは、それこそ千差万別であった。経済昔、仕事の苦境、病気、家庭不和、子どもの問題、人間関係の軋轢、自分の進路や宿命のこと‥‥生きるか死ぬか、せっぱ詰まった苦悩もあった。
 「こんな自分でも、幸せになれるでしょうか?」
 先生は、その必死の声を聞いては、わが事として同苦され、友の生命を揺さぶり、偉大な信力・行力を奮い起こすように励まされた。
 「大丈夫。この信心をして幸福にならないわけがない。心は王者でいきなさい。創価学会の名誉ある一員として誇りも高く生き抜きなさい」
 目の前の一人を救えるかどうか──一回一回の指導が真剣勝負であった。そこには「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦」との大慈大悲の仰せが響き渡っていたのである。
 大聖人の仏法は「現当二世」である。洋々たる現在と未来を開く「人間革命の哲学」だ。
 トルストイは言った。
 「過古に於ける生活が、いかなる方向を向いていたにもせよ、現在に於ける行為がそれを変え得る」(『人生読本〈全〉』八住利雄訳、自治調査会)
 しかり。人は人生を変えられる。その究極が妙法という大良薬の力である。
 御聖訓に「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」と仰せの通りだ。

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