Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広宣流布の人生の誉れ 迫害は「正義の行者」の証明

2003.5.7 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

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1  古代ギリシャの詩人ピンダロスといえば、あの若きアレキサンダー大王も愛読したことで知られている。その有名な一節に、「妬みはよき人々にのみ掴みかかり、劣った者とは争わない」(『祝勝歌集/断片選』内田次信訳、京都大学学術出版会)とあった。
 愚劣であれば、妬まれようがない。偉大であるからこそ、妬まれるのだ。
 これが、人間の心理であり、人生の道理である。
2  法華経の法師品には、「猶多怨嫉。況滅度後(なお怨嫉多し。いわんや滅度の後をや)」(法華経三六三ページ)と説かれる。
 仏である釈尊の在世ですらへ法華経に対して怨嫉(怨みや嫉み)が多かった。
 いわんや仏の滅後に、法華経を弘める者は、より多くの怨嫉を受け、難に遭うことは必然だというのである。
 その難は、いかなるものか。勧持品には、「三類の強敵」による迫害が示されている。
 つまり、第一に俗衆増上慢(仏法に無知な一般大衆)。
 また、第二に道門増上慢(邪智にして慢心の坊主)。
 そして、第三に潜聖増上慢(権力と結託する似非聖者)。
 この三類の敵人らが必ず、広宣流布する正義の人を怨嫉し、悪口罵詈や誹謗、讒言、追放等を加えてくるのだ。「開目抄」には仰せである。
 「仏と提婆とは身と影とのごとし」「法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし
 三類の強敵との大闘争こそ、広宣流布を正しく遂行している何よりの証なのだ。その人をば求めて、師匠と仰ぐべきであると、御聖訓には説かれている。すなわち、日蓮大聖人であられる。
 「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」とは、蓮祖が受けられた法難だ。ゆえに、日蓮門下と名乗りながら、一つも難を受けずに安閑としているならば、真に広宣流布をしていない証拠と断じざるをえない。
 一九四三年(昭和十八年)の七月六日に、牧口先生、戸田先生のお二人が、軍部権力に不当に逮捕されて、今年で六十年となる。
 牧口先生は、厳然と叫ばれた。
 「我々は、謗法者の中に敵前上陸をなし、敢然と大悪を敵として戦っているようなものである。三障四魔は紛然として起こるのが当たり前であり、起こるが故に法華経の行者と言われるのである」(『牧口常三郎全集』10、趣意)
 戸田先生も、火を吐くように叱咤された。
 「迫害や怨嫉に驚いてはならない。いかに学会を憎み、いかに学会を陥れようとしても、我々は師子王である。犬、野干(キツネの類)の如きものなど、断じて恐れるな!」(『戸田城聖全集』6、趣意)
  これが、我ら創価の師弟の誉れといってよい。迫害を受け、乗り越えてこそ、一番正しい仏法者としての勝利の証明なのである。
3  正法正義の弾圧には、悪辣な大嘘が用いられるのが、常であった。
 御書には、釈尊の難の構図として「女人をかたらひて・そら事いひつけて仏弟子をころす」%(同一五三八ページ)と喝破されている。
 大聖人御自身の伊豆・佐渡の二度の流罪も、事実無根の讒言によるものであった。
 最も高潔で、最も尊貴な御本仏が、「犯僧(女犯の僧)」という最も汚らわしい悪名を捏造され、天下に喧伝されたのだ。知恵でも人格でも敵わない邪僧らが嫉妬に狂い、権力と手を組んで、張り巡らした陰謀であった。
 大聖人正統であるがゆえに、創価学会もまた、同じ方程式の難を受けてきた。
 御書と寸分違わぬ仏意仏勅の学会と共に生き抜く人生は、真正なる菩薩の道であり、仏の道なのである。

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