Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「三代会長」と青年の使命 勇み楽しく広宣流布の大願へ

2003.4.26 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  「およそ大いなる運動を決然指導し、あるいはこれに戦いをいどむ者は、自分の力量を超えた抵抗に出会って生長してゆく」(『マリー・アントワネット』上、高橋禎二・秋山英夫訳、岩波文庫)
 これは、オーストリアの作家ツバイクの言葉である。
 烈風に鍛えられ、いよいよ強くなる。いよいよ闘魂を燃え上がらせる。ここに、学会精神の真髄もある。
 私の師である戸田第二代会長は、「この世から“悲惨”の二字をなくしたい!」と叫ばれ、これを宿願とされた。世界に苦悩の人、不幸な人がいる限り、いな、人間がいる限り、我らの広宣流布の戦いに終わりはない。
 それゆえに私は、戸田先生の死という、筆舌に尽くせぬ悲しみさえも乗り越え、一瞬の停滞もなく、前へ前へと突き進んだ。
 今から四十五年前(一九五八年)の四月下旬に、私は日記に書いた。
 「戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて……」(四月二十九日)
 先生のご逝去から1カ月になろうとしていた。巷間“壊滅寸前”“学会は空中分解する”などと、したり顔の予測が飛び交っていた。
 だが、私は、断じて学会を守り抜く決心であった。
 「わしの死んだあと、あとは頼むぞ」――先生のご遺言が、瞬時も、私の胸を去らなかった。誰かが、立ち上がらなければならない。誰かが、悲嘆に沈む全同志を励まし、希望の太陽と輝かねばならない。
 それは、恩師からすべてを託された、不二の弟子である私しかいなかった。
 仏法は厳しい。「師弟相違せばなに事も成べからず」である。
 初代・牧口先生は殉教であった。二代・戸田先生も、広宣流布に命を捧げられた。
 ゆえに弟子の私も、捨て身になって立ち上がった。それだけが、わが師の高恩に報いる道であったからだ。
 あの晴れ渡る昭和三十五年の五月三日、私は、第三代の会長として、生涯の大闘争を開始したのである。
 広宣流布のため、尊い同志のためには命も借しまない。この“殉教”の魂を受け継ぐ実践にこそ、日蓮仏法の法脈を永遠ならしめる、師弟不二の生命線がある――そう決意しての出発であった。
2  戸田先生は、第二代会長に就任されてより、甚深の決意をもって「三代会長は青年部に渡す」と言明された。ある運動なり、団体なりが永続性をもちうるかどうか。その流れは“三代”で決まるといってよい。
 一九五四年(昭和二十九年)の二月、戸田先生は、発作で倒れられた。そのころ、毎朝の「戸田大学」――先生から私への個人教授で学んでいたのが「日本史」であった。講義が徳川時代に入ると、先生は、初代・家康、二代・秀忠、そして三代・家光の時代で、二百数十年続く泰平の世の盤石な基盤が築かれたことを、鋭い史観で語ってくださったのである。
 三月半ばの一夜、先生をご自宅へお送りする車中でも、徳川の“三代将軍”を通して私に言われた。
 「大作、よく覚えておくんだぞ。三代で決まる。三代が大事だ!」
 私が青年部の室長の任命を受ける直前のことである。
3  先生の指導は、何を語られても、まことに卓越した帝王学であられた。
 「天下泰平、治世長久は、上たる人の慈悲に有ぞ」(「東照宮御遺訓」、『日本教育文庫 家訓編』所収、同文館編集局編、同文館)と家康は語ったといわれる。ある時、そうした指導者観が話題になった。すると、先生は、「だから指導者の責任は重いのだ」と、私に鋭い眼光を投げかけられた。
 常に「“下”じゃないぞ、“上”が大事だ」と、幹部に厳しい先生であった。
 無論、“上下”とは、役職の責任を言われたのである。
 広宣流布のため、同志を守るために役職がある。号令するだけで、自らは何もしない、口先だけの幹部は、学会にはいらないのだ。牧口初代会長が自ら教えられたごとく、「幹部率先」が学会の正しき伝統である。
 ともあれ、広宣流布のリーダーは日々、自らに問い続けることだ。
 今日も、わが胸に戦う勇気は燃えているか!
 同志を励ましてやまぬ、広布の使命感は滾っているか!
 邪悪を砕く正義の剣は握っているか!
 団結第一の共戦の心意気は揺るぎないか! 
 その満々たる闘志で、断固として、いっさいの勝利の指揮をとってくれたまえ!

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