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日蓮大聖人・池田大作

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我が青春の舞台・文京 無名の英雄が人びとを救った

2003.4.18 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  アメリカの女性ノーベル賞作家のパール・バックは言った。
 「生命と満足の秘訣は、どんな変化があろうとも、今日こそ最良の一日にしようという勇気と信念をもって、新らしい日々を始めることです」(『黙ってはいられない』鶴見和子訳、新評論社)
2  それは、昭和二十年の七月六日のことであった。
 我らの師・戸田城聖先生は、現在の文京区西片の坂道を疲れ、苦しみながら上っていった。先生が出獄されて、わずか三日後である。軍部政府の弾圧で壊滅状態にあった学会再建の基盤をつくるために、まず自らの事業を立ち直らせる方途を協議しようと、文京在住の友人を訪問されたのである。
 二年に及んだ獄中生活は、先生の体力をいたく消耗させていた。着ている夏服も、痩せ細った長身にはぶかぶかであった。だが、その目は一心に未来を見つめ、爛々と燃え輝いていた。
 まさに文京は、先生の生涯の大闘争の先駆けの天地であったといってよい。
 思えば、牧口先生も、あの「郷土会」の会合に出席するために、小日向にあった新渡戸稲造博士の家を、何度も訪問しておられる。
 さらに、ちょうど百年前、三十二歳の先生が、あの名著『人生地理学』を出版されたころに住んでおられたのは、実に文京の駒込であった。
 狭い借間に家族と暮らしながら、筆舌に尽くせぬ労苦の末に、『人生地理学』を仕上げられたのである。
 わが文京は、初代、二代の会長にとっても、実に縁深き土地柄なのである。
3  その文京に、私が"支部長代理"の任命を受けて飛び込んでいったのは、五十年前(一九五三年)の四月のことであった。
 草創の十二支部の一つであったが、当時の文京支部は、折伏も低迷し、信心の躍動も喜びもなくなっていた。思い余った女性支部長の田中都伎子さんが、泣きながら戸田先生に支部の窮状を訴えたのであった。
 先生の手の打ち方は素早かった。「僕の懐刀を送ろう」と言われ、直ちに、私を支部長代理にされたのである。
 広宣流布の遠征に落伍者を出してはならない。皆で勝利の山頂に登りゆくのだ! そのためにも、一番苦しんでいる人、一番苦戦している地域を励ますことだ!
 忘れ得ぬ四月の晩、私は、不忍通りから横道に入り、家と家の間の路地の奥にあった、傾きかかったような古い田中さんのお宅を訪ねた。探しに探して、ようやくたどり着いたことも懐かしい。
 私の「文京革命」は、支部の代表が集った部屋に入るやいなや始まった。
 皆で題目を唱えたものの、声が揃わない。つまり、戦いに臨むに、皆の呼吸が合っていなかったのだ。
 何度も、何度も、題目をやり直した。
 題目は形式ではない。最も大切な、この宇宙で最も強力な、魂の王者の武器である。その祈りを合わせることが、無敵の正義の陣列を組むことになるのだ。
 散漫な祈りは、焦点の合わないレンズと同じだ。互いに心がバラバラでは、皆の力も結果も出ない。
 「団結」とは、個性を押し殺した自己犠牲ではなく、エゴの殻を破る、自己の境涯の拡大である。崇高な目的に向かって心を合わせ、それぞれが持てる力を存分に発揮しゆく戦いだ。
 ゆえに、異体同心の信心のなかに、前進があり、勝利があり、幸福があるのだ。

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