Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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偉大なれ 福島の人材城 さあ前進! 栄光のその日まで

2003.4.3 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
1  「信仰より強い力はない」(『隊長ブーリバ』原久一郎訳、潮出版社)と、十九世紀ロシアの大文豪ゴーゴリは言った。
 私が青春時代、戸田先生のもとで読んだ傑作『隊長ブーリバ』の一節である。
 この作品は、ウクライナの大地を駆ける勇壮無比なコサック騎兵を主人公に、激しい人間絵巻が描かれている。
 ウクライナといえば、コステンコ大使とお会いした時、「将来、わが国の若者がコサック騎兵の姿をして、『相馬野馬追』に参加する計画もあるのです」と嬉しそうに語られていたことが、思い起こされる。
 「相馬野馬追」は、千年余の歴史をもつといわれる福島県の伝統行事である。大使は昨年夏、浜通り地方を訪れ、数百騎の騎馬武者によるこの威武堂々のぺージェントを見られたそうだ。
 福島の浜通りは、私にとっても、若き日から訪問を念じてきた憧れの天地である。
 以前、ウクライナの国立民族舞踊団の民音公演が、いわき市と郡山市で行われたこともあり、大使は今後の交流を楽しみにしておられた。
 福島とウクライナには、相通ずる「勇気」の魂が脈打っているように思えてならない。
 私は、大使に、ウクライナの勇気の気風は、いかにして鍛えられたのか伺った。
 すると大使は、『隊長ブーリバ』に登場する若者を例にあげて、「勇気は"自分の生き方は正しい"という信念から生まれるのではないか」と語り、こう強調された。
 「私は思います。
 "愛する民衆を幸せにしたい。人びとを抑圧から自由にしたい"――そうした願いこそ『正義』です。そして、勇気とは、その正義への確信から、湧いてくるのだと」
2  真の勇気は、慈愛や正義感と一体である。
 戸田先生も、「仏法の真髄である慈悲は、現実には勇気となって現れる。ゆえに、勇気が大事だ」と、よく言われていた。
 我らの広宣流布の人生は、人類の悲願というべき、民衆の幸福と平和を実現するためにある。ゆえに最高の勇気の行動なのだ。
 当然、そこには、御聖訓の通りに、無理解の批判や迫害も押し寄せる。
 ――私が福島を初訪問した五十年前(一九五三年)のことである。
 当時、日蓮仏法の正義を掲げた同志の奮闘は、澎湃として広宣流布の波を広げ始めた。その一波は福島の会津地方に及び、金上村(後に合併して会津坂下町)の正宗寺院を覚醒させ、寺にあった謗法を除こうとした。
 だが、この小さな宗教改革の動きにも、旧態依然たる檀徒が猛反発し、妨害したり乱暴を働くなど、深刻な軋轢が生じていた。社会的にも関心を集め、その寺院は学会に援助を仰いできたのである。
 一九五三年(昭和二十八年)、戸田先生の会長就任二周年の五月三日を飾った直後、私は、二度にわたり、数人の青年部幹部とともに、この事件の決着のために現地に飛んだ。
 先生は、「福島は東北の玄関口だ。大事だぞ」と、私に言われた。それだけに、深く心に期していた。
 "これは、福島広布の重要な初陣となる。ここで絶対に勝つのだ! 断じて、正義の旗を高く掲げてみせる!"
 私たちは、県下の新聞社など要所要所を回り、青年らしく、誠実に真剣に、事件の真相を訴えていった。さらに私は一人、厳然と地元記者たちにも会見した。
 学会のことも仏法のことも知らぬ、偏見や悪意に満ちた質問が飛んだが、丁々発止と、明快に答えていった。いな、誤りを破折していった。一瞬一瞬が、真剣勝負であった。
 ともあれ、真実ほど強いものはない。真実以上の雄弁もない。
 無理解を理解に変え、誤解を正しながら、堂々と語って語って語り抜いていくことだ。それが広宣流布である。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり
 一見、些細な局面と思えたとしても、今、自分がなさんとする「一回の対話」「一人の励まし」は皆、広宣流布の決戦場である。
 ゆえに、一つ一つ、誠意を尽くすことだ。全力で勝ち取ることだ。そこに栄光の自分自身の建設がある。
 ――あの事件から半世紀。今、福島には、後継の正義の青年が陸続と立ち上がってくれている。特に、若い世代の活躍が目覚ましい。私は本当に嬉しい。
3  磐梯山のふもと、猪苗代湖に臨む福島研修道場の近くには、世界的な医学者・野口英世博士の生家がある。
 来年発行の新千円札の肖像にも選ばれた。「天才とは勉強なり」と言われた奮闘努力の生涯は、今なお青少年に希望を与えてやまない。
 次から次に難病の病原体の発見に取り組み、寝食を忘れて研究に打ち込んだ。その疲れを知らぬ精励ぶりは「ヒューマン・ダイナモ(人間発電機)」と呼ばれたという。
 しかも、それは、単にがむしゃらな猪突猛進とは、まったく違うものであった。
 友人の一人は、野口博士が常に「此の方法によれば必ず斯の如きものが見付からねばならぬと云ふ確固たる信念を以て研究に着手」したと回想している。(真鍋嘉一郎「野口英世博士とフリードリッヒ・ミュルラー博士」、丹実編『野口英世 その生涯と業績』4所収、講談社)
 さらに、「見付かるか見付からぬか判らぬが、まあー兎に角やって見ようなぞと云ふ不安定な考察では決して手を下さなかった」(同前)そうだ。
 できなくても仕方ないなどという、中途半端な気持ちは微塵もなかった。「必ずやり遂げる」という執念と、「必ずできる」という確信が一体だったといえようか。
 自らの仕事を果たすことにかけて、言い訳はしない、弱音もない。結果を出すまで、努力、努力、また努力!
 この執念にしか、真の勝利の力はない。

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