Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

共戦の同志・栃木 時は今! 勇気よ轟け 勝利よ輝け

2003.3.29 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
1  「人を救わんとせよ」(『田中正造全集』18、岩波書店)
 栃木県が生んだ偉大な思想家であり、人権活動家である田中正造翁は叫んだ。
 しかもそれは、一人高みに立って、他人を教訓しようという態度とは違っていた。
 「救わるヽ身を以ても救わんとするハ、生きたる働きなり。生きたる働きハ生きるものなり」(同前)
 自ら苦しみ多き人間の一人として、民衆の中へ入り、民衆と共に生き抜いていくことだ!
 そこに彼は、”この世で生きる真の証”を見ていたのであろう。
2  田中翁は、近代日本で最初の公害事件とされる足尾鉱毒事件と闘い、最晩年には、被災人民と共に、峻厳なる日々を生きた。
 ある時には、こう友人に書き送っている。
 「夫れ山に入りて仙(=仙人)となるも世に何の益かあらん。社会紛擾の中にあり、若くは争闘苦戦の中に立ちながらに、即ちキルが如く、ミガクが如く、トグが如くして此苦中にあって仙と化するを得ば、自然社会にも益あらんと存候」(同全集19)
 そして、これが自分の「目下の信仰」(同前)だと言ったのである。
 私たちもまた、暗い矛盾と卑劣な争闘に満ちた、この現実から決して離れない。社会から逃避しては、真実の宗教の意味はない。
 あくまで、この激しき社会の怒涛の中で格闘しながら、「人間革命」即「広宣流布」の旗を振り続けるのだ。
 法華経には、「我れは常に此の裟婆世界に在って、説法教化す」(法華経四七九ページ)と説かれる。
 社会で戦え! 民衆を離れるな!
 ここに「立正安国」「人類平和」を使命とした、創価の永遠の大道があることを絶対に忘れではならない。
3  民衆の多くが戦災に疲れ果て、心身共に苦しめられていた一九四六年(昭和二十一年)の九月、わが師・戸田先生は、買い出し客で満員の列車に揺られながら、戦後初の地方指導に向かわれた。
 広布史に輝くその第一歩の天地こそ、栃木であった。
 あの時、先生を動かしたのは、女子部員の一途な声であったのだ
 疎開先である、父の故郷の村で折伏を始めたが、信心する人は誰もいない。悩み、思いあまって八月に上京し、戸田先生に指導を受けた。
 「わかった、よくわかった。行ってあげよう!」
 健気な女子部員は、勇んで栃木に帰るや、家族と小躍りしながら、折伏の炎を燃やし、師の来訪を待った。
 時代が時代である。彼女たち一家は、先生が来られるのは来年か再来年だと思っていた。ところが、ほどなくして、戸田先生を総大将に総勢七人で訪問するとの手紙が届いて驚いた。
 ”こんなに早く!”
 何事にも、時がある。今、何をするか。今、何ができるか。その時を逃さぬ迅速な行動こそが広布を開く力であることを、師は身をもって教えてくれたのだ。
 また、先生は、世間から噺笑され、悪口を言われながら、懸命に折伏に奮闘している、わが弟子たちを、一時も早く、応援し、励ましたかったのだ。
 「まず幹部が、自ら先頭に立つことだ!」「一番、苦労している最前線の同志を励ませ!」──それが、戸田先生のご精神であった。
 はるかに山々に囲まれた那須地方の村で、先生は、まことに地味で、小さな庶民の集いに飛び込んでいった。
 一粒種の一家が村中を奔走して開いた法華経講演会のあと、そのお宅で、ささやかな座談会となった。顔と顔を向き合った、この真摯な対話のなかで、入会希望者が生まれたのである。
 仏法は平等の哲学である。人間の生命には本来、上下も序列もない。
 人を見下す傲慢。人にへつらう卑屈。戸田先生は、どちらも大嫌いだった。
 人間の間を分け隔てるような言葉遣いや態度で、万人に平等な「生命の王宮」の扉を開ける道理もない。
 先生は人間主義の大哲学者であられた。
 相手がどうあれ、「誠実に語ろう」「真実を訴えよう」と真心を尽くして語る。この人は駄目だとか、あの人はどうだとか差別しない。決して先入観で切り捨てることはしなかった。
 そこにこそ、仏法の平等の心も脈打っていくのだ。
 戸田先生は常に、何のてらいもなく座を共にし、友の悩みに耳を傾けた。だから、学会は「血の通った組織」ができたのである。

1
1