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日蓮大聖人・池田大作

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不滅のわが愛知城 勝利に輝け! 二十一世紀の一番星

2003.1.29 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
1  十九世紀、イタリアの統一へ歴史的な使命を果たした革命家マッツィーニは、有名な言葉を残した。
 「目的地が遠隔であればあるほど、絶えず前進することがますます必要だ。急ぐな、しかし同時に休んではいけない」(トルストイ『一日一章 人生読本〈4~6月〉』〈原久一郎訳、社会思想社〉の中で紹介)
 まず、この箴言を「広布の堅塁」たる中部の皆様方に贈りたい。
 とともに「中部」と聞くと、胸に湧き上がる言葉がある。
 「世界の大偉業の大半は、もはやこれで絶望かと思われた時にも、なお仕事をやり続けた人々の手によって、成し遂げられた」(ドロシー・カーネギー編『カーネギー名言集』神島康訳、創元社)
 苦難に満ちた人生をいかに勝利するか。それを考え抜いた米国の思想家、デール・カーネギーの箴言だ。
2  わが中部の同志の方々は、幾たびとなく大迫害のなか……断じて負けなかった。
 来る年も、来る年も、悪意と偏見の壁は、あまりにも厚かった。非難と中傷の嵐は、あまりにも激しかった。
 しかし、偉大なる中部は、よく戦った。よく耐えた。そして、よく勝った。卑劣なるあらゆる大弾圧をはね返し、断固として勝ちに勝った。
 私は「ありがとう! ありがとう!」といつも感謝している。そしてまた「ご苦労様! ご苦労様!」といつも思っている。
 今や、愛知を中心とする広宣流布の堂々たる「堅塁」は、完壁に築かれ完成した。永遠に不滅の金剛の城は美事にそびえ立っている。
 天下の名城・名古屋城の彼方には、希望の一番星が煌々と輝き光る。これぞ、大明星天が、いつもいつも広布に走りゆく中部の友の活躍を、常に厳然と見守っている象徴の光であると、私には思えてならない。
 大切な学会の後継の青年部も、瞳は輝き、たくましく成長に成長を続けている。
 昨年、中部の青年部が企画した、あの”周恩来展”は全国を巡回し、行く先々で絶大な反響を、今でも巻き起こしている。
 周総理が逝去されたのは、一九七六年(昭和五十二ヰ)の一月八日のことであった。あの時、私は、この偉大な指導者の信念の足跡を、日本中の人びとに伝え残していかねばならないと、深く心に期したのである。
 その願望をば、わが偉大なる弟子たる中部の青年部が達成してくれたのであった。
 私は本当に嬉しかった。私は、頼もしき私の後継者が育ったことが、熱い涙が出るほど嬉しかった。
3  ところで、この「昭和五十一年」という年は、中部のわが同志と、深い深い思い出を刻んだ、歴史的な一年であった。
 一月十六日の夕刻、私は、大阪から愛知に入った。
 この日、名古屋では、約三百の会場で、にぎやかに婦人部総会が始まっていた。
 全国に先駆けての”一番”の開催だと伺い、私は、南区の六つの総ブロックの方々が集まった、名古屋南会館(当時)での婦人部総会に飛び入り参加した。
 ”二十一世紀は、必ず「中部の時代」が来る! ゆえに今こそ、その壮大なる陣列の城の基礎をつくろう。日本列島の中心の愛知から、真っ先に太陽を昇らせてみせる”と決意していたのであった。
 「愛知が一番だ!」「中部が一番だ!」──この誇りと伝統を、使命に走りゆく、わが友の胸に刻むことだ、と私は祈りながら励まし続けた。
 皆様方は喜んで私を迎えてくださった。その尊き母たちのために、私は、感謝を込めて語った。
 ──アメリカで、私が日本のある著名な財界人と懇談した時、「この世界で一番尊く偉いのは誰ですか」と聞かれた。おそらく、釈尊などの名前を、必ず挙げるものと、彼は予想していたようだ。
 だが、私は答えた。
 「一番尊く偉いのは、一般市民の、お母さんです!」
 彼は、驚いた顔をした。
 私は続けた。母こそが、雨の日も風の日も、太陽のように変わることなく、わが友とわが家族を、慈愛を込めて守ってくれているからだ──と。
 いつしか、会場のお母さんたちの目から、幾筋もの美しい涙がとぼれていた……。
 ともあれ、広が叩の太陽たる母たちの活躍こそ、平和と希望の光源であることは、絶対に間違いない。
 本年も、百花繚乱の婦人部総会から、栄光と大勝への前進が始まった。

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