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日蓮大聖人・池田大作

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会場提供の福徳の大長者 皆様こそ! 広布の金字塔の礎

2002.11.2 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
1  戸田先生は、常に言われていた。
 「拠点は重要な信心の『城』である。
 私たちが、お世話になっている、この『城』は大切な広宣流布の発信地であり、人材練磨の偉大なる『城』である」
 自宅を会合の会場に提供してくださるということは、並大抵のことではない。そこには、どれほど深く尊い使命感が光っていることか、どれほど人知れぬご苦労があることか。
 私は、現代の正法正義の大長者であられる拠点のご尊家に、朝な夕な、感謝の題目を捧げゆく日々である。
2  「旺盛な生命力というものは他に伝染するものであって、およそ私たちに強く考えたり感じたりさせるものは、私たちの力を増し加え、私たちの行動領域をひろげてくれる」(「随想余録」小泉一郎訳、『エマソン選集』3所収、日本教文社)
 このアメリカの哲人エマソンの言葉のごとく、わが創価学会は、満々たる生命力と烈々たる闘魂で、生き生きと前進してきた。ゆえに世界中の人びとの心をつかみ、勇気と希望の磁力を放ってきた。これが妙法の力であり、信心の力だ。
 御書には随所に”皆が寄り合って”等と仰せである。拠点へ集い合うリズムにこそ、互いに切薩琢磨し、威光勢力を増して、信仰を深め、人生を勝利しゆく正道がある。
 皆が集い合う宝座を提供する意義は、極めて大きい。
 思えば、熱原の法難の最中、若き南条時光の邸は、攻防戦の厳たる牙城となった。
 当時も、信徒を守って戦うべき責務を持ちながら、臆病にも裏切り、師・大聖人に弓を引いた、卑劣な同信退転の坊主どもがいた。
 そのなかで、時光は、迫害された熱原の法友を自邸に匿い、敢然と守り通したのだ。しかも、過重な税などを不当に課せられ、さまざまな圧迫にも晒された。
 大聖人は、その時光をこまやかに気遣われ、厳然と擁護されながら、「上野賢人」と讃えておられたのである。
3  創立の父・牧口先生も目白のご自宅で会合を聞かれ、指導を求めて訪れる会員を、懇切丁寧に励まされた。
 先日、大阪婦人部の功労者の方が、若くして亡くなられた夫君の宝の日記を届けてくださった。そこには、夫君が東京商科大学(現・一橋大学)の学生時代、牧口先生の目白のご自宅で折伏され入信したことが記されている。
 その日は一九四三年(昭和十八年)の七月一日の木曜日で、天気は”晴れ”とあった。牧口先生が最後の地方折伏へ出発される前日である。
 五日後の七月六日の早朝、先生は大聖人流難の地・伊豆の下田で逮捕された。その直前まで、先生のお宅は広宣拡大の最前線であったのだ
 「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし
 この御聖訓通りの不惜身命・死身弘法のお姿であった。
 第二代の戸田先生も、率先して目黒のご自宅で座談会等を開かれている。
 第三代の私も、アパートに一人暮らしの男子部の時代から、狭い自室が拠点となった。
 また妻の実家は、戦時中、牧口先生を、お迎えして、特高刑事の監視下、座談会を行った会場である。
 戸田先生の会長就任の翌年(一九五二年)は、蒲田支部の”二月闘争”の起点ともなった。
 私たち夫婦が、足かけ十二年にわたって住んだ大田区の小林町(当時)の家では、会合だけでなく、さまざまな相談事をかかえた同志が、朝となく夜となく訪ねてみえた。
 車道に面した、壁の薄い、小さな家である。夜中にコツコツと近づいた靴の音が、家の側で立ち止まると、同志が来られたなと思って、夫婦でお待ちしたこともある。夜行で上京して来た友と、一緒に朝ご飯を食べながら語り合ったこともあった。
 信濃町に移ってからは、一段と、全国、全世界に飛び回る日々となったが、機会をつくって、わが家に近隣の同志を招いて、懇談会をもったものである。本陣家族の仲間に入って、三十六年になる。

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