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日蓮大聖人・池田大作

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使命尊き”白樺”の友 生命の世紀へ 慈悲の看護の輝き

2002.10.9 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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1  「心をこめてすることのできないことは何ひとつしたくないというのがわたしの願いなのです」(『エマソン論文集』酒本雅之訳、岩波文庫)
 これは、アメリカの思想家エマソンの言葉である。
 来る日も来る日も、治療や介護の現場で、真剣勝負で看護にあたり、多くの人びとに安心と希望を与え続けておられるのが、婦人部の「白樺会」、女子部の「白樺グループ」の尊き皆様方である。
 戸田先生は、生命尊重の根本精神を「大慈悲」となされた。その心をもって、人びとのために働く方々を「健康博士」とも言われた。
 この「且酷グループ」が誕生したのは、一九六九年(昭和四十四年)の六月六日のことである。女子部の看護婦(現・看護師)グループの結成にあたり、私が「白樺」との名称を贈らせていただいた。
 それは──、私は、北海道の天地を訪れるなかで、幾たびとなく、凛としてそびえ立つ、白樺の強くして美しい姿を目にした。その清楚で、気品あるたたずまいが、「白衣の天使」のイメージにぴったり符合していたことから、命名させていただいたのである。
 その後、多くのメンバーが婦人部に移行したことにともなって、「婦人部白樺グループ」が発足し、一九八六年(昭和六十一年)に、各地で「白樺会」として結成されていった。
 白樺は、「パイオニアツリー(先駆樹)」と呼ばれる樹木の一種で、山火事や伐採後の荒れ地でも真っ先に育つ生命力の強い木である。さらに、後に生えてくる木々を守る役目も果たすことから、「ナースツリー(保護樹)」としても知られている。ある著名人は”看護の木”ともいわれていた。
 一九七八年(昭和五十三年)の六月、北海道の函館研修道場で、代表の方々と、その白樺を記念植樹したことも懐かしい。この地には、「白樺の碑」も、厳然と建立させていただいている。
2  ”現代のナイチンゲール”と讃えられている”白樺”の皆様は、本部幹部会をはじめ、広宣流布に立ち向かいゆくわが学会のあらゆる行事の舞台裏で、責任深く「救護」の戦士として活躍してくださっている。
 社会にあっては、それぞれの病院の、まことに多忙な勤務の合間を縫いながら、我らの会館に駆けつけて来られる方も多いと伺っている。全同志を代表して、私は、衷心より感謝申し上げたい。
 ”白樺”の先輩方は、常に自らに問い続けてきた。
 ──偉大なる妙法を持った私たちである。急病の方が出たら、救護に献身するのは当然である。しかし、私たちでなければできない看護とは、使命とは何なのか……。
 毎回の救護の責任を果たし抜いていくなかで、彼女たちは痛感していくなかで、彼女たちが痛感していった。同志の方々が皆、健康になり、一人として具合が悪くならないこと──それが私たちの第一の願いであり、めざすべきことだ、と。
 そのために、深く強く祈り抜く! これこそ”白樺”の誉れの伝統精神と受け継がれてきた。
 大宇宙をも動かす生命の法が妙法であり、その力を引き出す方途は、御本尊へのひたぶるな祈り以外にないのだ。誰よりも生命の力を知る人が、誰よりも題目の力を信じることができるのだ。
 自分も健康になり、人びとも健康にする祈りが、正しい日蓮仏法の真髄の姿だ。
 日本、そして世界の広宣流布に雄々しく、健気に、生き生きと活躍してくださる「慈愛の大芸術家」こそ”白樺”の実相だ。
 私も、妻と共に、日々、全同志の健康と長寿を、真剣に御祈念している自分も健康になり、人びとも健康にする祈りが、正しい日蓮仏法の真髄(しんずい)の姿だ。
3  一九七九年(昭和五十四年)の初夏のことであった。
 それは、私が会長を辞めて、はや一カ月になろうとするころのことである。五月の三日の総会を境に、「聖教新聞」等で私の動静が報じられることは、まるで禁じられたように、ほとんどなくなった。
 それは、当時の、恩知らずの反逆の連中が、学会乗っ取りをしようとした総本山の邪智顛倒の坊主らと結託して、私を完全に抹殺しようとした企みであったのだ。その全く陰険極まりない、道義に反した、狂気じみた様子を、鋭く嗅ぎとっていたのが、若き”白樺”の弟子たちだ。
 忘れもしない五月の二十二日、私は、横浜の神奈川文化会館で、久方ぶりに、白樺グループの方々とお会いした。ささやかな懇談会であった。
 その会合が始まる直前のことである。
 「先生!」「先生!」と、数人の”白樺”の乙女たちが駆け寄ってきた。そして、一人の友が、涙を浮かべながら言い放った。
 「先生、お元気ですか!」
 一途な声であった。一緒にいたメンバーたちも、祈るような真剣な顔でその様子を見つめていた。
 「私は、元気だよ!」
 そう答えると、皆の笑顔がほころんだ。
 この健気な友のためにも、偉大な日蓮仏法を守り抜くためにも、信心なき邪悪な坊主たちから指図される必要は毛頭ないと、私の心は師子のごとく燃えていた。
 真剣な、そして責任を深くもっておられる白樺会、白樺グループの方々の発する、真心の鋭い一言は、多くの人びとの心情を生き生きと蘇らせる。誠実な深き思いやりの、活発な行動は、生命を守り、多くの人びとの病苦を癒してくださっている。
 この「生命の世紀」の先頭に立つ、気高き重大なる使命については、御書の「御義口伝」に「衆生の重病を消除す」と仰せのごとく、法華経の「薬王菩薩」の力用にも通じゆくものだ。この薬王菩薩は、過去世において、自身を教化してくれた仏への報恩感謝のゆえに、わが身を燃やして灯明を供養したと説かれている。
 ”白樺”の皆様は、人びとのために尽くし、精も根も尽き果てるような激闘の日々のなか、さらに広宣流布のために献身し、多くの生き抜かんとしゆく人間たちへ、希望の光を点しておられるその功徳は、自分自身を燦々と照らし、永遠に包みゆくことは絶対に間違いない法理だ。
 私の師・戸田先生は、牧口初代会長の殉教を、「薬王菩薩の供養」と明言された。そして、共に投獄されたことを、「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と、最大に感謝された。
 深き「使命」と無量の「感謝」は一体である。そして、そこに無辺の幸福の生命へと、汝自身が輝きゆくのだ。
 ともあれ、感謝の心があれば、わが使命に幸福への命を点火できる。また、使命に生き抜く人生は、しみじみと無量の幸福の感謝に包まれていくものだ。
 この「使命」と「感謝」の人は、宿命の嵐を決然と乗り越え、崩れざる福徳の米冠を、その頭上に輝かせていくことができる。この人こそ、三世永遠の”幸福の女王”なのである。
 「感謝」といえば、白樺グループの初代の責任者を務めた方も、この言葉が大好きであった。彼女が亡くなった時には、どれほど多くの女性の方が、惜しみ、悲しみ、そして最大の敬意をもって唱題したことか。私の胸には、今もって、その様子が深く刻まれている。
 職場にあっても、広宣流布の諸行事で「救護」にあたる時も、多くの後輩たちの育成に奔走する時も、戦える喜びと感謝をもって、毅然として振る舞っておられた。
 私事になるが、私の母が老衰で床についた時も、すぐに駆けつけて、手厚く看護してくださったことは、生涯忘れることはできない。
 わが創価学園出身の、お嬢さんも、今では、偉大な母を継いで看護師となっておられる。”母娘一体”の活躍の姿が、本当に麗しい。また、彼女のように、学園から羽ばたき、”白樺”の一員として頑張っておられる方も多い。
 日本社会の高齢化は、ますます加速し、看護も介護もいっそう身近な、重大なものになってきた。人生を健康に生きることは、万人共通の願いである。
 我らの二十一世紀を「生命の世紀」へと輝かせる「生命の世紀」へと輝かせる「健康の智慧」の光源ともいうべき存在が、白樺会、白樺グループの皆様方である。最善最極の課題である生命を守り抜く、あまりに偉大な菩薩の使命に、停滞も終わりもない。
 「昨日よりは今日、今日よりは明日と いつも進んでゆく自分を見出すよう努めよう」(『ナイチンゲール書簡集』浜田泰三訳、山崎書店)
 これは、”看護の母”ナイチンゲールが、若き後輩たちに贈った言葉であった。
 この言葉の通りに進みゆく、「生命の世紀」のパイオニアの皆様をこそ、ナイチンゲールも最高に訴え、多くの同志が心から感謝していることを、私は声を大にして伝えたい。

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