Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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不二の旅立ち「8.24」(2) 日蓮仏法は、太陽の仏法である。

2002.8.25 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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1  日蓮仏法は、太陽の仏法である。
 ゆえに、全世界の民衆を照らしゆくために、一閻浮提への広宣流布が、絶対に必要なのだ。これが御遺命であるからだ。ともあれ、大聖人は仰せであられる。
 「仏法が日本の国に渡って七百余年の間、いまだ日蓮ほど、法華経のために諸人に憎まれた者はいない」 (御書1051ページ、通解)
 経文通りの迫害を誉れとなされた御聖訓である。
 そして、この大聖人の御出現から七百数十年――。
 我らは御書に寸分違わず、ある時は僧まれ嫉まれ、そして、ある時は弾圧されながら、世界百八十三カ国・地域への広宣流布を断行してきた。これこそ、創価の三代の師弟を貫く、我らの誇りである。
2  一九四九年(昭和二十四年)の年頭より、二十一歳の私は、戸田先生の経営される出版社の日本正学館に入社し、雑誌『冒険少年』『少年日本』の編集に携わった。
 私にとって、戸田城聖という人物は、「師」であるとともに、「主」であり、「親」の存在ともなったのである。
 ソクラテスの存命中に生まれ合わせたことが、「私の運命の最高の賜物」(山本光雄『プラトン』勁草書房)です――こう感謝したといわれる弟子プラトンの喜びが、私には何よりも深く共感できた。
 この殉教の大指導者のためならば、私はこの身を捧げることに、少しも逡巡はなかった。
 学会のために尽くそう! これが、広宣流布になるからだ。
 一年また一年、「8・24」を迎えるたびに、死身弘法の鑑であられた戸田城聖先生の大きな魂に包まれて、私の決意は、一段と燃え上がっていくのだ。
3  それは、一九五〇年(昭和二十五年)の八月二十四日のことであった。私の入信三周年の記念日である。
 当時、戸田先生の事業は行き詰まり、最悪の苦境にあった。多くの人びとが先生を罵り、逃げ去った。
 そのなかを、私は一人、師に仕え、一心不乱に祈り、阿修羅の如く奮戦した。
 この日は、新聞記者との誠心誠意の渉外に当たった。悪意と無認識の報道を何とか食い止めたかったからである。
 戸田先生と一緒に、虎ノ門の喫茶店で、記者と会見したあと、二人で日比谷公園の方へ出て、お堀端を見ながら、しばし歩いた。
 「言論の自由の時代だ。一つの新聞を持っているということは、実に、すごい力を持つことだ。学会も、いつか、新聞を持たなければならない。大作、よく考えておいてくれ」
 聖教新聞は、実に、この苦難の渦中の八月二十四日、師弟の対話から生み出された。
 この夜、法華経講義を終えると、戸田先生の理事長辞任が発表された。
 そのあとで、先生は、私に言われた。
 「苦労ばかりかけてしまうが、たとえ理事長を辞めても、君の師匠は僕だよ」
 当時、事業の負債は、膨大な額に及んでいた。
 あの剛毅な先生が、見るに忍びないほど憔悴されている時もあった。まさに先生は、生死の淵に立って、呻吟しておられたのである。
 私自身、いつ倒れるかもしれぬ病身であった。しかし、私は青春の闘志を烈々と滾らせながら、申し上げた。
 「先生、ご安心ください。断じて私が打開してみせます。先生に必ずや、会長になっていただきますから!」
 私の全生命は、師匠の命を、何が何でも守り抜いてみせるという執念の塊であった。
 御書には、「師弟相違せばなに事も成べからず」と戒めておられる。
 師弟が不二であれば、すべてを変毒為薬して勝ち抜いていける。
 この秋霜烈日の時を、師弟不二で勝ち越えて、翌年の昭和二十六年の五月三日、晴れわたる青空のもと、第二代会長の歴史的な栄光の就任式を遂に迎えたのである。 

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