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日蓮大聖人・池田大作

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日中国交三十周年に念う 青年よ続け! 万代友好の大河

2002.8.19 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
1  迫害の嵐のなかで、人民の精神革命、社会改革に生命を賭した中国の文豪・魯迅は、悠然と言い放った。
 「改革で、昔から順風に帆を揚げたものはなかった。冷笑家の賛成は、つねに成功を見た後のことである」(「且介亭雑文」松枝茂夫訳、『魯迅選集』11所収、岩波書店)
 彼は、こうも言っている。
 「路とは何か? それは路のないところを踏み歩いてできたものである、荊糠ばかりのところを伐りひらいでできたものである」(「熱風」増田渉訳、同選集6所収)
 一つ一つが、真実の言葉である。そして、日本と中国の「国交正常化」実現への苦難の道程も、まさにこの言葉の通りであった。
 この九月、日中は国交正常化三十周年の佳節を迎える。だが、わずか三、四十年前は、日中の友好を叫ぶことが命がけでさえあったのだ。
 私自身も、あえて、その逆風に挑んだ一人である。
 すでに、小説『新・人間革命』第十三巻「金の橋」の章で詳細に書いたが、三十四年前(一九六八年)の九月八日、一万数千人の学徒が集った両国の日大講堂で、私は「日中国交正常化」を提言した。
 文化の大恩人たる中国との友好交流は、アジアの安定、さらに世界の平和への不可欠の機軸だと、深く確信していたからである。
 反応はさまざまであった。いな、冷笑や批判が多かった。外交の邪魔だと非難もされた。
 しかし、新たな波を起こさずして、どうして新しき時代を創れるか! 哲学なき日和見主義の臆病者に、真実の友情を築けるか!
 私は、その後も、恐れず、二波三波と、日中友好へ勇気の声をあげ続けた。
2  本年、学会青年部が企画・制作した、「偉大な指導者 周恩来」展が、各地で大きな反響を広げている。
 名古屋に始まった展示は、これまで東京、沖縄、福岡、香川を巡回し、観賞者も六十五万人を突破した。今月下旬からは魯迅ゆかりの仙台で開催され、その後も、京都、横浜、富山で予定されている。
 「中日友好」は、周恩来総理の熱願であった。
 国交正常化から二年余が過ぎた一九七四年(昭和四十九年)十二月五日、私は、北京で人民の総理と会見した。
 総理は七十六歳。私は四十六歳であった。
 「池田会長は、中日両国人民の友好関係の発展はどんなことをしても必要であるということを何度も提唱されています。そのことが、私には、とても嬉しいのです」
 病篤き総理は、医師団の反対を押し切り、三十歳も若い私との会見に臨まれていた。「あなたが若いからこそ、大事につき、あいたいのです」と遺言のごとく、おっしゃった。
 日中友好のバトンを若き世代へ! これが総理の心であった。ゆえに私も、生命を削ってでも、若き青年たちに同じ心を託したい。
 周総理との邂逅の日と同じ昨年の十二月五日、私たちは中華全国青年連合会(全青連)代表団のご一行を、日本に迎えた。
 全青連は、中国国内の青少年団体が加盟する連合会で、小学生から一般の社会人まで約三億七千万人が所属する、中国でも、いな、世界でも最大規模の青年組織である。
 私は、東京牧口記念会館で代表団の皆様に、お会いした。
 席上、馬春雷団長は、学生時代に、私とトインビー博士の対談集を読み、人生の糧としてきた思い出を述懐しながら、力強く語られた。
 「池田先生、ご安心ください! 私たちも、周総理が、そして池田先生が開いてくださった中日友好の道を継承してまいります!」
 私のことはともかく、この「友誼の心」の継承を、深く決意してくださっているkおとが嬉しかった。日中の青年たちに、活々たる友情の大河がつくられていくならば、万代の友好は盤石だ。
3  全青連と学会青年部との交流が開始されたのは、一九八五年(昭和六十年)三月のことである。
 この時、全青連の主席(訪日団団長)として来日されたのが、現在、新世紀のリーダーとして活躍される胡錦濤副主席(=後の国家主席)である。知性と情熱を秘めた瞳が印象的だった。
 胡副主席は、四年前(九八年)、東京で十三年ぶりに再会した折に、こう語られた。
 「今日の中日関係は、前人の事業を引き継ぎ、未来に発展の道を開くという重大な段階に入りました」
 「いかに後継者をつくり、世々代々に友好を伝えていくかが大事だと思います」
 急所を突いた言葉である。私は率直に語った。
 「そうです。一番大切なのは『青年の熱』です!」
 思えば、一九七四年(昭和四十九年)五月の下旬、私は、初訪中への出発の折、空港に見送りに来られた方々に語った。
 ──政治や経済の次元にとどまらず、永遠性の次元に立年交流」が一段と大切になる。真実の人間と人間との友好によった「文化交流」「教育交流」「青年交流」が一段と大切になる。真実の人間と人間の友好によって、揺るぎなき平和の基盤を、さらに、堅固にしていきたい、と。
 第一次訪中団の平均年齢は三十五歳。わが学会の訪中団は、その出発点から、青年の友好交流団であった。
 「青年の熱」が「世界の温度」を決める! 青年と青年が熱情ある交流をしていく以外に、平和友好が発展を続ける道はない! これが、私の不変の信念であった。

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