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日蓮大聖人・池田大作

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わが闘魂の勝利城・立川 「広布流布」こそ学会精神

2002.5.31 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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1  我、巌のごとく、ここに立つ!
 我、炎のごとく、ここで戦う!
 我、暁のごとく、ここで勝つ!
 東京・立川は、常に広宣流布の勝利へ、勝利へと、ほとばしる栄光の源流である。
 それは、一九七七年(昭和五十二年)の師走の二十三日──。立川文化会館が落成した二日後のことであった。
 記念の勤行会に出席し、私は、わが同志に訴えた。
 「人生の真実の勝利は、広布流布の信心を貫く以外にない。
 そのために、生きた信心の団体である創価学会員として、誇り高く生き抜いていただきたい。
 当時は、いわゆる「第一次宗門事件」の渦中であった。
 御聖訓には、涅槃経の文を引かれて、「その僧は、袈裟を身にまとっているけれども、信徒を狙うありさまは、猟師が獲物を狙って、細目に見て静かに近づいていくがごとく、猫が鼠をとらんとしているがごとくである」(御書二一ページ、通解)と仰せである。
 ここ多摩地域の第二東京(当時)でも、陰険で貪欲な坊主どもの、どす黒い策謀が渦巻いていた。その荒れ狂う激浪のなかに、我らの「正義」の砦として、厳然と、そびえ立ったのが、立川の文化会館であった。
2  私は今こそ、第二東京の中心たる立川に、完壁なる広布の城をつくっておかねば、後々に必ず後悔することを知っていた。
 二十三区と同じように、第二東京は、人口の増加とともに大発展する、最も重要な地域となることを知悉していた。それが、近い将来の東京の勝利であり、そして学会の勝利につながることを、私は確信していたからだ。
 あの宗門事件のさなかの五年間、私は、立川こそを”本陣”と定めて指揮をとった。
 なかでも、一九七八年(昭和五十三年)の激闘の日々は忘れ難い。
 この年、私は、北海道から九州まで、全国を回りに回った。四国へ三回、関西へは七回も走った。九月には、第四次の訪中に飛んだ。
 その激しい動きにあっても、私の中心の拠点は、常に立川であったといってよい。
 とともに、立川から、八王子へ、狛江へ、東村山へ、田無(当時)へ、青梅等々へ、第二東京の各地の激励に疾駆したのである。
 そして、全園、全東京の同志も、立川へ、立川へと、勇んで集ってくれた。
 「提婆がやうなる僧・国中に充満」するなかで、”立川文化”は、まさに攻防戦の中枢であった。嵐に怯まぬ正義の戦艦であった。
 悠久なる広宣流布の大道を開くために、友よ、断じて魔軍を打ち破るのだ!
 勝って勝って、勝ちまくるのだ!
 私は祈る思いで、わが立川の宝械に、”悠久山”の名を贈ったのである。
 広宣流布とは、他の誰かが、どこか遠くで進めるものではない。それでは観念論にすぎない。
 まず、自分が、一人の友と信頼を深めることだ。
 自分が、近隣を大事にすることだ。
 自分が、地域の繁栄を祈り、行動することだ。
 私は、立川文化会館の職員や管理者とも、近隣・地域の皆様方と、さわやかに挨拶を交わし、日頃の交流を大切にしていくことを、確認しあった。
 「最初の挨拶は千金の値打ちがある」(『西東詩集』井上正蔵ほか訳、『世界名詩集』5所収、平凡社)とは、文豪ゲーテの知恵のの言葉である。
 私自身、機会を見つけては、会館近くのラーメン屋さん、パン屋さん、喫茶店等に足を運んだ。「繁盛してますか」と声をかけながら、店の方と楽しく語り合ったものである。
 また、近くに住む会員に、高血圧で具合の悪い人がいると聞けば、会合の合間を縫って、お見舞いに伺った。
 自分のいる場所から友情を結ぼう! この地元には不幸を寄せ付けない! わが地域に希望を広げよう!
 その一念を込めた誠実な対話の積み重ねによって、広宣流布の現実の土台は築かれる。そして、それが、そのまま、地域の発展に連動していくのだ。
3  一九七九年(昭和五十四年)の四月二十三日の午後、私は、立川文化会館を出て、信濃町の学会本部に向かった。会長辞任の発表のためである。
 何も知らず、会館の前で見送ってくれた健気な同志に、私は一言、語った。
 「何があっても、”みんなの先生”であることに、変わりはないんだよ」
 広布のため、同志のために捧げた命である。私は変わらない。微動だにしない。
 あの”勇退劇”の翌日(二十五日)、私は信頼する友の待つ立川文化会館に帰って、謀略と中傷の矢をはね返しながら、正義の闘争を開始したのである。
 それは、もう度、新しい創価学会をつくり直す覚悟で、一人、また一人と、同志を励ますことから始まった。
 わが師は、「戸田の命よりも大切な学会の組織」と明確に言われた。
 会員は私の命だ。同志を、学会を、邪悪な反逆者どもに蹂躙させてなるものか!
 私は、徹して同志のなかに飛び込んだ。会うこと、それ自体が戦いであり、一瞬一瞬が真剣勝負であった。
 会合の前後の仏間で。ロビーで。会館の周辺で。外出する前に、また戻ってきた時にも、そこに居合わせたメンバーを励まし続けた。創価班、牙城会、白蓮グループの凛々しき男女青年部や、尊き守る会の方々とも、寸暇を惜しんで語り合った。
 家族や仕事のこと、組織のこと……近況に耳を傾け、激励し、握手し、記念のカメラに納まった。その少人数の語らいは、幾百幾千人にも上るであろう。
 私は信じた。この方々が、必ず一人立ち上がり、五人、十人と、正義の波動を広げていってくれることを。
 私は、爛々と二十一世紀を見据え、一人ひとりと師弟の縁を深め、手作りで人材を育成していった。
 そして、見よ! 「悪は多けれども一善にかつ事なし」との御断言のごとく、正義は完璧に勝ったのだ。

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