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日蓮大聖人・池田大作

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広島の深き使命 師弟共戦で開け! 平和の世紀

2002.5.9 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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1  「此処が、この世が、私達の奉仕の場所であるのだ。
 それ故に、この世に於ける奉仕を成し遂げるために、私達の全力が集中されねばならぬ」(『人生読本・全』八住利雄訳、清教社)――これは、ロシアの大文豪トルストイの信念の言葉である。
2  二十世紀が開幕した一九〇一年(明治三十四年)の二月のことである。
 アメリカ西部のオレゴン州で、後の二十世紀最大の科学者ライナス・ポーリング博士は生まれた。わが師・戸田先生が石川県に誕生して、ちょうど一年後であった。
 博士が十三歳で化学の世界に目を開いたころ、幼少期に北海道に移っていた戸田先生は、厚田村を出て、奉公先で大八車を引きながら、古今の書を読みふけった。
 博士が牛乳配達や道路舗装の技師をしながら苦学したエピソードは、先生の苦闘の青春と重なり合うものがある。
 わが師と同世代を生きられたこともあり、私にはポーリング博士が慈父のようにも、「平和の道」の師のようにも思えてならなかった。
 生前の博士と開催をお約束した「ライナス・ポーリングと二十世紀」展が、アメリカでの公開に続き、平和原点の地・広島で、国内初の巡回展が五日まで行われ、入場者七万人を超える大反響を広げた。
 会場は、被爆の歴史を刻印する旧日本銀行・広島支店であった。爆心地からわずか三百八十メートルにありながら、その堅牢な建物は原爆の猛威に耐え、被爆者の収容所にもなった。焦土にぽつんと残り、いち早く、内部の窓口を各銀行で仕切り、業務を再開。広島の復興を金融面で支えた。
 原爆の地獄絵図。奇跡的な復興。この両方をつぶさに目撃した建物での開催であった。ポーリング博士も、ご存命であれば深い意義を感じ取ってくださったにちがいない。
 広島と長崎への原爆投下こそ、科学の世界に没頭していた博士の目を平和運動に向けさせた原点である。
 一九五九年(昭和三十四年)、博士は広島を初訪問。原水爆禁止を訴える世界大会で歴史的な「ヒロシマ・アピール」を発表した。争いを正義と道徳によって解決する道を!」――博士は、広島から、平和の旋風を巻き起こそうとされた。
 私には、博士が、あの血色のよい、つやつやした少年のような頬に笑みをたたえ、この展示会を見守っておられたように思えてならない。
3  私が初めて広島の地に立ったのは、一九五七年(昭和三十二年)の一月二十六日である。後の「SGIの日」と同じであった。
 この年は、核開発競争に、人間の良心からの警鐘が鳴らされた年でもあった。
 七月にポーリング博士は、核実験に反対する科学者たちと、有名なパグウォッシュ会議を開催した。
 一方、九月八日に、戸田先生は青年への「遺訓の第一」として、「原水爆禁止宣言」を発表され、核兵器を「絶対悪」と断じられた。
 科学者の知性、そして仏法者の英知が、共に核兵器という人類の敵に挑んだのだ。
 しかし、このあと、戸田先生のお体は、目に見えて衰弱していった。それでも先生は、十一月二十日には、敢然と広島指導に向かわれようとしていた。
 その前日、憔悴された先生に忍び寄る死魔の影を感じた私は、重苦しい心で学会本部への道を急いだ。
 応接間のドアを開けると、戸田先生はソファに、じつと身を横たえておられた。私は膝をつき、必死に、広島行きの中止を進言した。
 先生はゆっくりと体を起こし、私の目を見すえた。
 「御本尊様のお使いとして、一度、決めたことをやめられるか! 男子として、死んでも行く。これが、大作、真実の信心ではないか!」
 戸田先生は仁王立ちになっていた。私はこみ上げる鳴咽を抑えられなかった。
 「原水儒禁止宣言」から、二カ月後のことである。先生の被爆地・広島への思いは、いかばかりであったろうか。
 核兵器という「サタン(悪魔)の爪」に破壊された広島へ、命と引きかえで出発する覚悟だったのである。
 だが、この翌日には、先生の病状は、歩行もできぬほどに悪化し、ついに広島指導は断念せざるをえなかった。
 恩師は五十七歳。ご逝去の半年前のことであった。
 生命を賭して、広島行きを望まれた、あの師の気迫は、生涯、わが胸から消えることはない。いな、それが、私の行動の原点になった。
 体が弱く、三十歳まで生きられないと医師に言われた私である。それ以降の人生は、師とお会いしていなければ、なかったかもしれぬ。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん
 捨て身の覚悟なくして、どうして歴史を動かせようか。その覚悟で新たな波を起こしてこそ、真の弟子である。

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