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日蓮大聖人・池田大作

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威風堂々の京都 世界の憧れの都に舞え 創価の英雄よ!

2002.3.19 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

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1  「世界は進化し、永遠に停止することはない」
 「文化は進歩しなければ歩する」(矢吹晋編『十九歳の東京日記』鈴木博訳、小学館
 若き日、日本に留学された中国の周恩来総理が、日記に記された言葉である。
 その通りだ。だからこそ、「前進また前進」の弛みなき挑戦が、人間の成長のためにも、社会の発展のためにも、絶対に必要なのである。
 仏法も「進まざるは退転」と説いている。
 周総理は、美しき京都を愛された。
 なかでも帰国の直前に、嵐山や円山公園に足を運ばれ、澗漫の京の春を眼に焼き付けられたことは、あまりにも有名である。
 現在、その嵐山の亀山公園には、若き総理が詠まれた詩「雨中嵐山」の石碑が建立されている。
 私が周総理に、お会いした時、「五十年前、桜の花の咲くころに日本を発ちました」と語られたご胸中には、京都の桜が万朶と咲き薫っていたにちがいない。
 それから一年余り後、私が、総理の逝去の計報を聞いたのは、奇しくも京都においてであった。
 私は今、懸命に小説『新・人間革命』第十三巻の執筆を進めている。多くの読者の方々が待ってくださっているからだ。
 第一章のタイトルは「金の橋」。一九六八年(昭和四十三年)の九月八日、私が一万数千人の学生部総会で発表した「日中国交正常化提言」がテーマとなる。
 本年は、両国の国交正常化三十周年である。新世紀の「金の橋」を、さらに盤石に築いていきたい。
 中国の友人の方々が、周総理ゆかりの京都を訪問され、わが同志と麗しい友誼の花を咲かせる機会も一段と増えている。
2  京都は、長い間、「政治の都」であった。しかし、それにもまして、千二百年を超える長寿の生命を保持してきた「文化の都」であった。
 「傲れる権力人の栄華は久しからず」
 歳月の浸食に耐え抜いて残るものは、むしろ人びとの心に根ざした文化である。
 我らの広宣流布の活動は、民衆の大地から湧き上がる文化運動である。だから強い。
 そして、この創価の大行進を鼓舞してきたのは、わが京都の同志のなかから生まれた「威風堂々の歌」であった。
 草創期、「濁悪の此の世行く 学会の……」と声高らかに歌いながら、京都広布に先駆した一人に、初代の地区部長、支部長をされた壮年がおられる。
 彼は、満々たる「求道心」を燃え上がらせていた。
 古都の伝統の壁は厚く、思うように布教が進まないことを、真剣に悩み、祈る日々であったにちがいない。お会いするたびに、必ず何か質問されることが常であった。
 本部幹部会の時など、夜行列車で東京に駆けつけて、早朝、一七五センチはあろうかという長身の姿が、大田の小林町の我が家の玄関に立っていたこともあった。
 朝食を共にしながら、京都で戦う尊き使命を、また、遠大なる妙法流布の展望を語り合ったことも懐かしい。
 「なんとしても同志を幸せにしたい!」との祈りが、「なんとしても広宣流布をするのだ!」との責任感が、誠実に指導を求めさせたのであろう。
 「心は、外から刺激を受けないと、枯死するか、さもなければ、萎縮してしまう外はない」(『魯迅選集』5、松枝茂夫訳、岩波書店)とは、中国の文豪・魯迅先生の人間学であった。
 リーダーの境涯が大きく広がっていく分、組織も大きく広がっていくのだ。
 当時、京都の広宣流布は、日本で一番最後になると、多くの人が思っていたようだ。宗門でも、そう言っていた。
 だが、私は、京都の友の熱き求道の一念に触れ、必ず大発展すると強く確信していた。
 そして事実、支部結成から二年余りが過ぎた一九五八年(昭和三十三年)の十二月、わが京都の同志は、堂々と「全国一の拡大」を成し遂げたのだ。
 勇気と執念の行動があるならば、必ず「壁」は破れる。京都の奮闘が、日本中の同志にとって、どれほど大いなる希望となったことか!
3  名刺と呼ばれる寺院が甍を並べる街で、学会は、宗門に新しい寺院も寄進した。
 そして「これこそ聖僧である」という手本を示してほしいと願い信じて、赴任した僧を守りに守った。
 あの日顕も、一九六三年(昭和三十八年)から何年もの間、学会寄進の京都の寺の住職であった。
 しかし「聖僧為る可し」の遺誡に背き「遊戯雑談」に明け暮れる「法師の皮を著たる畜生」の腐った姿であったことは、多くの同志が見聞きし、当時から憤慨していた。それらの不祥事を、皆であえて庇いもし、押し隠して、守り抜いてあげたのである。
 そうした真心も踏みにじって、狂った宗門の坊主どもは、一九七七年(昭和五十二年)ごろから、広宣流布に献身しゆく学会員を侮蔑し、迫害したのだ。
 「魔沙門」とも「狗犬の僧」とも、御書に喝破されている如く、どれほど異常な強欲、冷血の坊主たちであったか!
 なかでも宇治市を中心とする、当時の洛南圏の同志は、ひとかたならぬ苦渋を強いられた。
 学会が寄進した寺の坊主は、御書の講義もそっちのけで、学会批判の罵署雑言を繰り返すのみであった。
 また、故人を悼む葬儀や通夜の席でも、「学会についていったら地獄に堕ちる」等々、冒漬の極みの暴言を言い放った。
 さらには、一部の名聞名利の幹部を誑かす、和合僧の撹乱と破壊に狂奔した。他宗も呆れ果てるような、京都の長い仏教史においても空前の狂態であったといってよい。
 だが、学会精神、そして関西魂の真髄を知りたる京都の友は、死に物狂いで創価の法城を厳護し抜いてくれた。なかんずく、わが婦人部の正義のスクラムは健気であった。
 私が、宇治平和会館へ走ったのは、その迫害の渦中の一九七八年(昭和五十三年)の十月十二日である。それは開館十周年の記念勤行会であった。
 私は、指導の結びに「開目抄」の有名な一節を拝した。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし……」
 「我並びに我が弟子」──師弟は一体であり、師弟は不二である。
 いかなる苦難が襲いかかろうとも、大聖人に直結して、広宣流布の師弟の道を貫く人が、必ず仏になる。必ず大境涯を聞き、最後は勝つ。
 「熱原の法難」から七百年の意義あるこの年、が師子の京都は猛反撃を開始し、威風堂々と邪悪を粉砕していったのだ。

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