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日蓮大聖人・池田大作

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紅燃ゆる志の天地・四国 友よ 正義を叫べ 正義に生き抜け

2001.7.28 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  それは、お元気であられた戸田先生にお供しての忘れ得ぬ旅であった。
 一九五五年(昭和三十年)の一月の二十二日の寒い朝である。
 先生と私は、関西の伊丹空港から、当時の極東航空の小さな飛行機で、四国の高知へと飛び立った。
 朝八時四十分の出発で、約一時間十分の舵程であった。
 そうした移動の最中でも、先生は、献に、教学の話、哲学の話、世界史の話、多くの学者の話等々をされながら、必ず、私に勉強をさせたものである。
 その四国に向かう機中でも、先生と、さまざまな話題を語り合ったことが、あまりにも懐かしい。
 先生は、フランスの哲学者であるベルクソンについて聞かれた。
 私は、「彼の有名な言葉に、”どこまで行けるかを知る唯一の方法は、出発して進んで行くことである”とあったと思います」と申し上げた。
 また、”精神にとって生きるという事は、遂行すべき行為に自らを集中することである”という意味のベルクソンの箴言も、思いつくままに語った。(『精神力』小林太市郎訳、第一書房、参照)
 先生は、「ああ、いい言葉だな」と誉めてくださった。
 そして次に、ユゴーの話に移った。
 先生は、「ユゴーは、随分、一緒に読んだな」と楽しそうであられた。
 私は、間髪を入れずに、”今日、なお慎重であることが問題であろうか? 勇気こそが問題なのだ”」(『追放』神津道一訳、『ユゴー全集』9所収、ユゴー全集刊行会、参照」)との一節をあげた。
 先生は「そうだ。よく覚えてるな」と頷かれた。
 やがて「近代においては、偉大な人間は誰だろうね」と尋ねられて、私が黙っていると、先生は「何と言っても、アインシュタイン博士だよ」と、おっしゃった。
 私が、「確か、博士の信条に、『国家は人間のためにつくられているのであって、人間が国家のためにつくられているのではない』とありました」と申し上げると、先生は「よく知っているな」と嬉しそうであられた。(アインシュタイン『わが世界観』石井友幸・稲葉明男共訳、白揚社)
 動く「戸田大学」の語らいのうちに、飛行機は、高知の飛行場に到着した。
2  その日は、皆が待ちに待った、高知地区の記念の総会が活気に満ち満ちながら、開催されたのである。
 この晴れの総会で、私は学会歌の指揮をとるように言われた。
 それは、戸田先生自ら直々に、私を指名されたのであった。
 ”四国の友よ、勇敢に立ち上がれ!”と、私は渾身の指揮をとって、皆を励ました。皆、喜んでくださった。
 やがて、戸田先生の講演となった。
 先生は、板垣退助や中江兆民など高知が生んだ自由民権の先人たちが、フランスの思想家ルソーを学んで、政治革命をめざした歴史を語られ、強く、強く訴えられた。
 「今日の新しい時代の平和革命は、日蓮大聖人の思想を実践する以外にない。
 高知の地から、新たな平和革命のうねりを頼む!」
 大聖人の御聖訓には、人間の尊厳と、民衆こそ根本であることを説かれた、大哲理が光る。
 「一人を手本として一切衆生平等
 「男女はきらふべからず
 「王は民を親とし」等々。
 日本に、真実の民主主義と平和の時代を! その建設の主体者こそ、日蓮仏法を行ずる、わが学会員である!
 これが、戸田先生の深い確信であり、自負であられた。
3  明治の新時代が明けて問もない激動期に、時の強権的な政府に対して、「国民の自由と権利」を要求する運動が起こった。
 これが、歴史に名高い「自由民権運動」である。
 その発祥の地は何処であったか。
 高知県出身の若き民権運動家・植木枝盛は叫んだ。
 「自由は土佐の山間より発したり」
 これは、一八七四年(明治七年)に高知で結成された、民権運動の結社「立志社」の、機関誌(『海南新誌』)の創刊号に記されている。
 つまり、我らが高知、我らが四国から、民権の波は起こり、広がっていったのだ。
 革命の先駆は、青年だ。
 今から百二十年前の一八八一年(明治十四年)には、若き植木が、憲法草案「東洋大日本国国憲案」を起草した。実に、彼は二十四歳の若さであった。
 この憲法案は、八年後に公布された明治憲法(大日本帝国憲法)より、はるかに民主的であった。
 立憲君主制の枠内ではあるが、事実上の人民主権を基にした憲法案である。
 そして、「日本人民ハ如何ナル宗教ヲ信ズルモ自由ナリ」(『植木枝盛集』6所収、岩波書店)などと、「信教の自由」を含め、基本的人権を無条件で保障していたのである。
 この憲法案は、現在の日本国憲法の成立に影響を与えたともいわれている。

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