Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

創価の先頭・中国の同志 民衆よ強く! 新時代の扉を開け

2001.7.24 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  「私共は先頭を切ろうとすれば自分の脚で立ち一心に働かねばなりません。(中略)結局大切なものは私共自身の奮闘であると思うのであります」(ネール『自由と平和への道』井上信一訳、社会思想研究会出版部)
 インドの初代首相、ネルーの言葉は、有名である。
 私にとって、この叫びは、来る日も来る日も、広宣流布の勝利のために、一心不乱に奮闘しておられる、わが尊き同志の姿と二重写しになる言葉である。
 「学会の皆さんは、本当にお元気ですね!」
 日頃、私は、多くの内外のお客様とお会いするが、よくこういう感想を伺う。
 特に、婦人部の皆様と交流した方は、必ずといっていいほど感嘆しておられる。
 いな、驚嘆しておられる。
 学会員が元気だ──その賞賛を聞くことは、私の最も嬉しい瞬間である。
 皆が活力にあふれ、生き生きとしているかどうか。
 社会の繁栄や、未来の展望といっても、指導者がこの一点に心を致さなければ、机上の空論にすぎない。
 日蓮大聖人は、濁乱の世の様相を、端的に「民の力よわ」と喝被されている。
 言い換えれば、民衆を強くできるかどうか、「民衆へのエンパワーメント(力を与えること)」こそが時代変革のカギとなる。
 ”二十世紀の奇跡″といわれた創価学会の興隆は、民衆が強くなり、賢明になり、自らが力をつけた結果である。
 長い間、幸福のため、正義′のために叫ぶことを知らなかった民衆が、敢然と声をあげたのだ。これこそ、正義への時代を明確に回転せしめた、-黄金輝く歴史なのである。
2   恐るるな
    厳と勝てよと
      大聖の
    裁きを胸に
      中国 立ちゆけ 
 かつて、贈った一詩である。
 昭和五十三年(一九七八年)は、中国方面で、二回の 「本部幹部会」を開催した。
 「種種の誑言を構え重重の讒訴を企つる」と仰せの通りの、狂気の如き学会攻撃の時代であった。
 御聖訓通りの学会の前進の指揮をとる私は、経文と符合した大難に、深く感動した。
 この嵐の中、私は中国の同志のもとへ駆けたのである。
 私にとって、中国は、関西とともに、手作りで開拓してきた、かけがえのない広宣流布の天地であるからだ。
 この年の五月十八日、九州から山口入りした私は、中国の最高協議会を終えると、直ちに次の行動を開始した。ちょうど、山口文化会館の地元の大歳支部が座談会を開催すると聞き、足を走らせた。その会場を提供しておられる、建築業を営む支部長宅へ向かった。
 外まで参加者があふれるような盛況ぶりで、二百人ぐらいの方が来ておられたようだ。玄関は、靴がいっぱいで足の踏み場もなく、縁側から上がらせていただいた。
 飛び入りの参加である。
 「皆さん、こんばんは!」
 私の声に「えっ」という驚きがあがり、すぐに大拍手と大歓声が弾けた。
 「『大歳支部』とは、いい名前ですね。皆さん、強盛な信心で、うーんと長生きしてくださいよ!」
 明るい笑いのなか、座談会は再開された。
 少し雰囲気が硬いようなので、「今日は、私が司会を務めましょう」と言いながら、体験談、同行幹部のあいさつと続けて、やがて自然に質問会となった。
 「何でも聞いてください」
 私が申し上げると、勢いよく何本もの手があがった。
 「性格」について、「進路」について、「宿命転換」について……。
 この方々が全員、「祈りとして叶わざるなし」という信心の醍醐味を味わっていただきたい。勝利の人生を勝ち取っていただきたいと、私は、質問に一つ一、つ、真剣にお答えした。
 学会の創立以来、歴代会長が最も力を注いできたのが、座談会である。
 牧口先生も、戸田先生も、目の前に「一人」の友がいれば語り合った。「一対一の膝づめの対話」が、そのまま座談会となった。
 対話には納得がある。信頼がある。知恵がある。また、生き生きとした対話は、民主主義の基盤である。
 対話で民衆を励まし、民衆の心と心を結べ! これが、広宣流布の不変の軌道だ。
3   中国の
    花また華が
      爛漫と
    広布の如く
      咲きたる美事さ 
 その二日後の五月二十日、平和の原点の地・広島で初めて開催された本部幹部会は、教え切れぬバラの花の香りが包んでいた。
 福山の婦人部の皆様が、会場の広島文化会館に届けてくださったのだ。
 私は、決まった式次第が終わると、皆に呼びかけた。
 「今日は、せっかくの機会ですから、もうしばらく語り合いましょう!」
 皆、大喜びで私の机を囲み、「バラの幹部会」は、数百人もの創価家族の「対話集会」となった。
 そして、我も我もと、喜びの報告が相次ぎ、対話の花が咲き薫ったのである。
 広宣流布の正義の闘士の集まりである。たとえ一言であっても、尊き汗と涙がいっぱい詰まっている。
 指導者は、友の声に耳を傾け、地味な努力と献身を讃えることだ。そうすれば、学会は、さらに何倍、何十倍もの力が涌出することであろう。
 御聖訓にも、「法華経の功徳はほむればいよいよ功徳まさる」と仰せの通りだ。
 賢明な使命に生き抜く人間には、倣慢に君臨する坊主などいらない。人びとを軽賤し、侮蔑してゆく愚昧な坊主などは、仏法破壊の魔物にすぎない。
 創価の民衆は、決然と立ち上がったのだ。権威も恐れない。中傷非難も恐れない。いわんや魔物の如き坊主など、誰が信用するか!
 真実の大仏法の哲学は、厳然と戦う創価の英雄たちの胸中に、満々と流れていった。
 ナチスと戦った、フランスの作家カミュは叫んだ。
 「人間は、自分の力をどのように使うかによって、その価値が決まる。低俗な人間どもには、偶然や愚かさがかれらに与えた権力のかけらをつねに濫用する傾向があるのは、注目すべきことだ」(H・R・ロットマン『伝記 アルベール・カミュ』大久保敏彦・石崎晴己訳、清水弘文堂)

1
1