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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川 7月の深き縁 師弟の魂燃える大闘争

2001.7.5 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  「ひじょうによい結果を得たければ、みんなが奮闘しなければなりません。みんなが奮闘してこそ、大成功をおさめることができるのです」(「講演集」堀川哲男訳、『世界の名著78 孫文 毛沢東』所収、中央公論社)
 かつて読んだ、この一節が、今もって私の心を捉えている。それは、中国民主革命の先駆者であり、横浜を一大拠点とされた、孫文博士の言葉である。
 博士は、「われわれが事をなすには、人に先んずべきで、人に遅れてはなりません」(同前)とも訴えた。
 七月三日は、我々、創価の同志が、忘れることができない記念の日である。
 第二代会長・戸田先生が出獄した日であり、また弟子である私が、有り難くも入獄した日だからである。
 自然に、この巡り来る七月は、正義の闘争である広宣流布の力が、いやまして速力を全開させていく、伝統の月となった。
 そして、この仏法正義の快進撃の新しい決意の前進は、一段と、師弟は不二である大精神が燃え上がる七月となってきた。
2  私が会長を辞任した直後の、あの一九七九年(昭和五十四年)五月三日は大晴天であった。
 しかし、創価大学の体育館で、時の法主を迎えて行われた佗しき総会は、出席者の多くの胸中に、その無念さと悔しさが、奥深く刻まれて残っているにちがいない。
 この時、出席した代表幹部にとっては、その心境のいかんによって、今日の結果が、勝利の人間になったか、敗北の人間になったか、さらに常勝の人になったか、陰険な人物に堕ちていったかが、決定された日であった。
 この厳しき因果の心の動きは、汝自身が一番知っていることである。
 創価の真実の広布の英雄であったか、信心利用の卑怯なる臆病のニセ幹部であったかが、厳しく問われる瞬間であった。
 正義に目覚めて戦った人は、未来は永遠に明るい。
 邪悪に狂った人生は、未来は永遠に暗黒だ。
 この創大での総会を終えて、私が真っ先に向かったのは、横浜に新しく建設されたばかりの神奈川文化会館であった。
3  戸田先生が「城外」と、自らの名前を残してきたことは、皆様もご存じの通りだ。
 「城中」には、師である牧口先生がいらっしゃればいい。弟子は城の外に出て、あらゆる敵の大軍と戦うという意味で付けられた名前だ。
 私も、東京の本陣に帰らず、真っ先に「城外」である神奈川城に突進して、そこから新しい、いうなれば本門の法戦を、私の本懐として遂行しようと決意していったのである。
 いくら同志が裏切っても、私自身の師匠である戸田先生との誓いは、絶対に私は裏切らなかった。
 それが、仏法の上からも、人間としても、最高の正しい生き方であることを、明確に知っているからだ。
 「正義の旗」を一人掲げた 「名誉会長」としての初陣の地こそ、わが神奈川であったのである。
 その年の「七月三日」も、私は、あの山下公園の彼方、太平洋へ船出しゆく姿が目の当たりに見える、神奈川文化会館にいた。この日、私は、中米コスタリカの大事な客であられる大学教授をお迎えした。そして、人類の未来を語り、平和を語り、文化を語り合い、論じ合い、価値ある歴史を留め始めたのだ。
 翌一九八〇年(同五十五年)も、「7・3」は神奈川だった。神奈川の友が、埼玉の同志と共に、記念の集いをもってくださった。

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