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日蓮大聖人・池田大作

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わが初陣の故郷・大田 いざ驀進! 人生勝利の大ドラマ

2001.6.14 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  この五月二十五日、私は、車窓に大田の街を見つめながら、横浜へ向かった。
 逞しき庶民の活気と熱意が満ちる大田!
 初夏の光を浴びて、水面はきらめき、そこかしとの緑もまばゆかった。
 わが故郷・大田には、三代の師弟の刻印がある。
 牧口先生が幾たびも座談会に通われた、現在の西蒲田や多摩川の町。
 戦後、学会の再建に向け、戸田先生が初めて出席された鵜の木の座談会。
 恩師・戸田先生と私が出会った糀谷の座談会。
 さらに今年は、草創の十二支部の中核たる蒲田支部の出発から五十周年である。「最強」と謳われた王者の支部であり、私が、広宣流布の若武者として、決然と出陣したのも、この蒲田支部であった。
2  わが初陣──それは「伝統の二月」の淵源となった、一九五二年(昭和二十七年)二月の折伏戦である。師匠が第二代会長に就任されて約九カ月。しかし、広布は遅々として進まなかった。
 戸田先生は一月末、最高幹部の集まりで、その沈滞気分を破って叫ばれた。
 「このままでは、とうてい広宣流布はできない。本当の弟子はいないのか!」
 私は、先生の命を受けて、蒲田の支部幹事に就任したばかりであった。
 当時、一支部で一カ月百世帯の折伏さえも、なかなかできない状態が続いていた。誰かが猛然と、その行き詰まりの厚い壁を打ち破り、大驀進の口火を切らねばならなかった。
 私は二十四歳。他の幹部はみんな年上だった。
 しかし、同志は、若い私と心を一つに立ち上がってくださった。
 なぜか。私が誰よりも真剣であったからだ。たった一人になっても、自分が師の構想を実現すると、誰よりも一生懸命であったからだ。
 立場や口先や要領で、人が動くはずがない。人を真剣にさせるものは、虚栄も気取りも捨てた、自分の真剣さ以外には絶対にない。
 あの時、私が目標として掲げたのは、「組」二世帯の弘教であった。「組しは今でいうブロックである。
 最前線に勇気を!
 最前線に自身を!
 最前線に躍動を!
 私は、「組」のリーダーをはじめ、一人ひとりを徹して励まし、さらに、座談会等に出席できない方々もこまめに回った。第一線の同志が総立ちになれば、必ず勝利の活路は開けるからだ。
 そして一カ月後、怒涛の驀進で戦いきったわが蒲田支部は、過去最高の「二百一世帯」の弘教を達成した。見事に、厚い厚い壁を破ったのである。
 後年の三類の強敵との攻防戦を思えば、小さな「一丈の堀」であったかもしれないが、この第一のハードルを勇敢に勝ち越えたからこそ、今の創価の栄光がある。
 ゆえに、大事を為さんとする者は、断固として、目下の壁を打ち破れ! 討って出て勝利の突破口を開くことだ!
 「豪胆は歴史を輝かすものであって、人間の最も大なる光輝の一つである」(『レ・ミゼラプル』2、豊島与志雄訳、岩波文庫)とは、大文豪ユゴーの剛毅な一節である。
3  この「二月闘争」を発火点として、戸田先生が悲願とされた七十五万世帯への広宣流布の炎は燃え上がった。
 以来、大田の戦友は、妙法の聖火を掲げ、全国を駆け巡った。たとえば、矢口地区から秋田、名古屋へ、大森地区から函館へと、友は走った。
 さらに沖縄、浜松、大宮、水戸、川崎にも、弘教の波は広がった。大阪の初代支部長も、わが蒲田の出身だ。
 また、札幌の夏季地方折伏(昭和三一十年)や、翌年の山口の開拓指導の時も、大田の闘士は、私と共に勇んで戦ってくださった。
 私が、第一回の北・南米訪問の時から、何度も、何度も、世界に飛び立ったのも、羽田の空港からであった。二十世紀の後半、日本も、世界も、大田を源流として、慈折広布の波を千波万波と広げていったのである。

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