Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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わが目黒の栄冠 不滅の歴史を創れ 共戦の同志よ!

2001.2.9 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

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1   死身をば
    弘法にかえゆく
      嬉しさよ
    永遠に残りし
      歴史なりせば
 一九八二年(昭和五十七年)の新春、私は、この歌を胸に響かせながら、猛然と正義の戦闘を開始した。
 戦いは勢いで決まる。指導者の牽引力と、先手先手の知恵と行動で決まってしまう。
 私は、鎖を断ち切った獅子のように、広宣流布の戦野を駆け巡る決心であった。
 一月九日の土曜日の夕方、信濃町の学会本部を出た私は、目黒平和会館に向かった。
 目黒と品川の、わが共戦の同志と懇談するためである。
 車中、幾人もの、懐かしき闘士の顔が浮かんできた……。
2  ――目黒の同志たちは、ここ三年というもの、「正信会」と称する、傲慢で冷酷な悪侶どもの攻撃に苦しみ抜き、耐え抜いてきた。後の日顕宗のはしりともいうべき、信徒迫害の最低最悪の坊主どもであった。
 あの悪侶らが、冷たい薄ら笑いを浮かべ、学会を中傷し始めた時のことを絶対に忘れることはできない。一九七九年(同五十四年)一月のことであった。
 以来、彼らは、寺の行事で、御書ではなく、人権蹂躪の低俗な週刊誌の情報を振りかざし、「学会は謗法を犯した」などと、悪口の限りを尽くした。
 葬儀や法要に傲然と現れて、遺族を前に、お悔やみの言葉ではなく、「学会では成仏できない」等と、信じ難い暴言を吐いた。
 ある年の″節分会″では、坊主が「謗法!」と喚きながら、学会員に豆を投げつけたのだ。
 全く、狂気の沙汰であった。
3  狂暴な嵐が始まって約二カ月後(七九年)の三月、私は、目黒にあった小泉隆元理事長のお宅を訪ねた。
 当時、私自身も、卑劣な言論の暴力を浴びていた。だからこそ、せめて目黒に足を運び、励ましを送りたかったのである。
 私は、″負けるな、断じて負けるな!″と祈りながら、小泉宅に居合わせた地元の友を激励したのであった。

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