Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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熱原法難の歴史(下) 三烈士の誉れ 三代会長の誇り

2001.2.7 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  「師弟相違せばなに事も成べからず
 熱原法難のさなか、日興上人は、逐一、身延におられる日蓮大聖人に報告され、具体的な御指示や御指導をいただいた。
 この大難に、大聖人と、「師弟一体」で立ち向かわれたのである。
2  弘安元年(一二七八年)、滝泉寺の院主代・行智らは、法華経を信仰することを禁ずるという御教書(幕府の命令書)を偽造し、正法の拡大を阻止しようと画策した。
 大聖人は、それらが虚偽の謀略文書であることは、見る前からわかりきっているではないかと、喝破しておられる。
 事実、御教書が偽であることは、簡単に露見した。
 だが、邪智の策動は執拗であった。同志を怨嫉する人間を誑かして退転・反逆させ、門下の団結を切り崩そうと謀ってきたのである。
 もともと、大田親昌、長崎時綱は、富士方面の中心的信徒であった高橋六郎兵衛に対する悪感情を抱いていたとされる。
 また、三位房は、日興上人に対する嫉妬があった。
 日興上人よりも先輩格であり、比叡山にも留学した学僧であったため、増上慢の心が強く、わずかな学識を鼻にかける一方、民衆の中に飛び込んで戦う姿勢が希薄であった。
 大聖人の命により富士に派遣されたものの、後輩の日興上人のもとで活動することに反発していたのである。
 所詮、信仰者のあり方としては、仏法を中心とするか、自分を中心とするか、二つに一つしかない。
 いつの時代も、退転者は、「法」よりも、自分の「感情」や「利害」を優先させるものだ。その心の隙に魔が食い入る。
 大聖人は、その卑しい本性を、「臆病」「物をぼへず」「欲深く」そして「疑い多き者ども」と、見破っておられた。
 忘恩の裏切り者は、間もなく、落馬などが原因で、次々に変死を遂げた。
 御書には、その現証を「法華経の罰のあらわるるか」「現罰なり別ばちなり」 と断じられている。
 仏意仏勅の大恩ある学会に弓をひいた輩も、一人として例外なく、無残な末路を遂げていることは、ご存じの通りである。
3  弘安二年(一二七九年)の九月二十一日。かねてから信徒が集まる機会をとらえ一網打尽にしようと狙っていた行智らは、この日、日秀の田の稲刈りの手伝いに人びとが集合することを知った。
 そこで、下方庄政所の役人など多数を集め、稲刈りの最中を急襲すると、二十人の農民信徒を不当に逮捕し、政所に連行したのである。
 しかも、行智らは、日秀が武装した農民を指揮して院主の住坊に乱入し、滝泉寺の田の稲を盗みとったという事実無根の罪状をでっち上げて、幕府に訴え出た。
 この訴訟は、「自科を塞ぎさえぎらんが為に不実の濫訴を致す」ものであった。
 つまり、自分たちの罪科を隠すために、虚偽を申し立てて、無実の人を訴え、みだりに裁判を起こす。現代的にいえば、「訴権の濫用」であった。
 近年の学会への邪悪な策謀と、全く同じ方程式である。

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