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日蓮大聖人・池田大作

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創価の魂の源流・豊島 正義の誉れ 師弟の闘争の天地

2001.1.25 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  「彼は独りだろうか。いや、彼は右手に勇気を、もう一方の手には信仰を持っている」とは、有名な先哲の言葉である。
 私たちの人生の師である、初代会長・牧口先生、そして第二代会長・戸田先生の、一体不二ともいえる師匠と弟子は、一九四四年(昭和十九年)の正月を、東京拘置所の獄舎で迎えられた。
 現在の豊島区東池袋(当時の住所は西巣鴨)の地である。
 その前年七月に、わが創価教育学会を襲った弾圧で、極悪法の治安維持法違反と、不敬罪の容疑のために逮捕され、初めて迎える新年であった。
 わずか三畳一間ほどの、狭く冷たい独房であったという。
 ことに七十二歳の牧口先生にとって、真冬の「寒さの絶頂」の責めは、どれほどお体を苛んだことであろうか。
 膝が冷える持病もあり、厳寒のなか、いたく体調を崩されたこともあったようだ。
 しかし、大法流布に生き抜く牧口先生は、泰然自若として、家族に書き送られた。(『牧口常三郎全集』10、第三文明社)
 「大聖人様の佐渡の御苦しみをしのぶと何でもありません」(一月七日付)
 「信仰を一心にするのが、この頃の仕事です。これさへして居れば、何の不安もない。心一つのおき所で、地獄に居ても安全です」(一月十七日付)
 ――「地獄」の二字は、拘置所で検閲され、黒く塗りつぶされていた。
2  受難の道を歩まれた牧口先生は、入信前から豊島の温かなわが家に住んでおられた。
 創価教育学会の創立後、小学校長を退職してからは、ここ豊島の目白にお住まいであった。
 ご自宅は、毎週一度、会員の面接指導の場であり、池袋の会員の会場では、何度も、座談会が開かれていた。
 先生が囚われている東京拘置所は、ご自宅から一駅という、目と鼻の先の距離である。それでも、鉄の扉は固く閉ざされ、家族に会うこともできない。
 陰険な国家権力は、身の自由を奪い、肉体を消耗させた。
 春ごろからは、連日のように、手錠に編み笠の姿で裁判所に護送されては、予審判事の執拗な取り調べを受けた。
 その過酷な追及の場も、牧口先生にとっては、国家神道の誤りを破折する、諫暁の法戦場であった。
 自ら供述を書かれ、「一冊の本」になるほど、創価の真実と確信を訴え抜かれた。
 独房でも、看守に、堂々と、仏法の対話をされた。
 御聖訓には仰せである。
 「種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし
 鉄格子の獄中でも、なお正義を叫ぶ口がある! 文を書く手は動く! おのが信条を貫き、熱き魂を死守できる!
 臆病者には、あらゆる環境が言い訳になる。勇者には、いかなる苦境も、闘魂を燃え上がらせる薪となる。
 牧口先生のお振る舞いは、蓮祖大聖人の殉難に連なる、誉れの師子の姿であられた。
3  一九四四年(昭和十九年)の十一月十八日(土)、学会創立と同じ日の早朝、牧口先生は、東京拘置所の病監で、七十三歳の尊き生涯を閉じられた。
 今、私も、先生と同じ年齢となった。先生の分まで、生き抜き、戦いに戦わねばならぬと、私は決意している。
 牧口先生は、前年の九月二十五日、警視庁から東京拘置所に移された。以来、豊島で、約四百二十日にわたる、不屈の魂の大闘争を展開されたのである。
 逝去の一カ月ほど前(十月十三日)、絶筆となったお手紙には、こう書かれた。
 「百年前、及び其後の学者共が、望んで、手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いて居る。これ故、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」(前掲全集10)
 「経文通りです」――御本仏直系の末弟子として、これ以上の誉れがあろうか。
 それは、先生の「勝利宣言」であったといってよい。

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