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日蓮大聖人・池田大作

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仏法の生死観 「生も歓喜・死も歓喜」の黄金の人生

2000.11.3 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  一九九〇年代、私は、アメリカのハーバード大学で、二度、講演を行った。
 いずれも、世界の知性の首都ボストンの街並みが金秋に彩られゆく季節であった。
 第一回は、一九九一年九月二十六日(木曜日)の午後六時過ぎ。ケネディ政治大学院の招へいをいただき、同大学院のウィナー講堂が会場となった。
 テーマは「ソフト・パワーの時代と哲学――新たな日米関係を開くために」である。
 二回目の講演は、その二年後(一九九三年)の、見事な秋晴れの好天に恵まれた九月二十四日(金曜日)の午後四時半過ぎからであった。
 会場は大学内のイエンチン・ホールである。
 ハーバード大学の文化人類学部と応用神学部の二つの学部から招へいをいただいた。
 テーマは「二十一世紀文明と大乗仏教」を掲げた。
 冒頭、私は、「正しき生命観の確立こそ二十一世紀の最大の課題」として、「生も歓喜、死も歓喜」という仏法の生死観について論じた。
 すなわち、仏法の眼から見れば、生命は縁に触れて、ある時は出現し、ある時は潜在化しながら、流転を繰り返していく。
 したがって、死とは、人間が睡眠によって明日への活力を蓄えるように、次なる生への充電期間のごときものであって、決して忌むべきではなく、生と同じく恵みなのである。
 信仰の透徹したところ、「生も喜び」であり「死も喜び」であると。
 この論点に関しての反響は、予想以上に大きかった。
 ハーバード史上、最も高名な学者の一人であるガルブレイス博士(同大名誉教授)も、講演後の講評のなかで、特にこの点を強調してくださった。
2  全米宗教学界の最高峰・コックス学部長も、同じく講評で、「池田氏は、『死』に対する、今までとは全く異なった観点を紹介してくれました。
 西洋社会は、死を否定したり、死を美化したりする傾向がありますので、この生死観には、我々にとって多くの学ぶべき点があると思います」と語ってくださった。
 先日も、私の大学講演集で、その内容を読まれたアメリカの学者の方から、所感のお便りをいただいた。
 その中に、「生も歓喜」ということは理解できるが、「死も歓喜」とは難解である。この点、仏法上、どう意義づけるかという質問が綴られていた。
3  かつて私は、フランスの青年たちと共に、ロワールの地を歩き、レオナルド・ダ・ビンチが生涯を終えた館を訪れたことがある。
 このルネサンスの巨人が最期を迎えたという寝室には、彼の言葉が銅板に刻まれていた。
 「充実した生命は 長い
 充実した日々は いい眠りを与える
 充実した生命は 静寂な死を与える」
 よき一生を悔いなく生ききった人に、死の恐怖はない。
 なかんずく、宇宙と生命を貫く永遠の法則に則りながら、人びとのため、正義のために、戦い進んだ人生が、いかに歓びの山頂へと到達していくか。
 日蓮大聖人は、仰せである。
 「退転なく修行して、最後、臨終の時を待ってご覧なさい。
 妙覚の山に走り登って、四方をきっと見るならば、なんと素晴らしいことであろうか。法界は皆、寂光土であり、瑠璃をもって地面とし、黄金の縄をもって八つの道を仕切っている。天から四種類の花が降ってきて、空には音楽が聞こえ、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、心から楽しんでおられるのである。
 我らも、そのなかに列なって遊び戯れ、楽しむべき時が、間近になっている」(御書一三八六ページ、通解)と。
 これが、宇宙に律動する仏界・菩薩界という「歓喜の中の大歓喜」の生命の次元である。

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