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日蓮大聖人・池田大作

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イタリアの若き太陽に栄光あれ 人間復興の都に響く 生命の讃歌

2000.10.17 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  それは、今から十九年前の、一九八一年五月二十八日のことである。
 私は、ソ連(当時)、西ドイツ(同)、ブルガリア、オーストリアと、世界平和のため、広宣流布のための旅を続けていた。
 この日の午後、私たち一行は、初めて、ピサ国際空港に降り立った。
 私のイタリア訪問は、六度目である。そして、初訪問(一九六一年)から二十周年にあたっていた。
 当時の私の境遇は、第三代会長を辞任してから二年余りたっていた。
 例の反逆者が仕組んだ策謀と、嫉妬の宗門の妨害のために、日本列島では、まだまだ自由に会合にも出られず、多くの学会員の方々に寂しい思いをさせる一日一日であった。
 そうだ! ならば、世界がある! 私は、SGI会長として、新しき広宣流布の波を起こし、全世界を視野に収めて、立ち上がる決意をした。
 その私の決意は行動となり、あの世界的に有名な、ルネサンス発祥の″花の都″フィレンツェに飛んで、新しき絢爛たる広布の花を咲かせ始めたのだ。
 滞在の四日目であった。
 わが広宣流布二十周年を祝賀する友好文化総会が、青空に包まれて、晴れ晴れと、″詩の都″フィレンツェの郊外にある、緑の庭園の美しい会場で開催された。友は、イタリア全土から、賑やかに、颯爽と、集って来られた。
 「オー・ソレ・ミオ(おお、わが太陽よ)」の歌声に包まれ、ローマからも八十人、ミラノからも百八十人、トリノからは百六十人、地元フィレンツェからは二百四十人等々、各地から続々と、代表が集まってきた。
 しかも、その大半が二十代を中心とする青年たちであった。
 さらに、フランスやイギリスからも、この祝賀のために、同志が勇み出席してくださった。会場は、若々しい生命の息吹に包まれていた。二十一世紀への鼓動が、いやがうえにも高鳴っていた。
 青年! 青年こそ、私の希望の太陽であった。
 私は、既に前日の懇談の折、万感を込めて語っていた。
 「太陽が昇れば、地球は明るくなる。『太陽の仏法』を受持した人が、その一家に、その社会に、一人存在することで、太陽のごとく、すべての人を救える!」と。
2  イタリアでは、長い間、遅々として弘教は進まなかった。
 その分厚い壁を破らんと、草創のリーダーたちは、体当たりで挑み続けた。
 一九七〇年に支部ができても、座談会の会場は、ローマにただ一つあるだけ。メンバーのほとんどが日本人。話すイタリア語も片言程度であったようだ。
 数年間、懸命に走り回っても、集まるのは、いつも同じ顔ぶればかりである。
 毎日の活動が、大海の水をコップですくうような徒労に思える時さえあった。
 悩みに悩み抜いて、金田君が出した結論――それは、「基本に返る」ということであった。
 まず「一人」を育てよう!
 当時、政治や社会に失望し、ヒッピーになった若者が、大勢いた。
 人生を漂流するかのような彼らに、同志は仏法という人生の羅針盤を、「人間革命」の道を、忍耐強く語っていった。
 そして、入会を決意した友が「勤行・唱題を実践」し、「座談会に参加」し、現実社会のなかで「信仰の確信をつかむ」まで、徹して面倒を見た。
 この「一人の人」を大切にする、誠実に徹した人間主義の行動が、一人また一人と、イタリアの青年を奮い立たせた。
 さらに、見違えるように成長した青年の姿に触れて、その親たちも仏法に目覚めていったのである。
 まさに、イタリアの思想家マッツィーニが言うように、「力の秘訣は永続的、統一的な努力に存する」(『人間義務論 他二篇』大類伸訳、岩波文庫)という方程式を正確に実践していったのである。
3  イタリアでは、「質問会」がよき伝統となり、大変に有名である。
 そこには、各人の人生観、宗教観、幸福観がみえる。後輩の鋭い″質問攻め″にあいながら、組織の中心者も、自ら仏法を真摯に学んでいくのである。
 なんでも語り合える開かれた「対話の広場」――これが真実の仏法の世界である。宗門のごとき権威主義は、誰人も心からの納得はしていない。
 約六百年前、フィレンツェの市民サルターティは書いた。
 「人びとからのがれ、魅力あるものに背をむけて、修道院にとじこもり、あるいは人里はなれた僧院に隠れ住むことが、人間完成の道だなどと信じてはいけない」(近藤恒一訳『ルネサンス論の試み』創文社)
 人びとのなかへ! 市民生活のなかへ! 対話の広場へ! そこで真の人間となるのだ!
 これが、錆び付いた束縛の鎖を断ち切り、普通の市民が生きる喜びを謳歌していった「ルネサンス」の精神であった。
 今、新たなる「生命のルネサンス」もまた、真剣な魂と魂の「対話」から、はつらつと始まっていったのである。

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