Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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蓮祖の御入滅 大難を超え 燦たる太陽の如く

2000.6.5 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  「数知れぬ、悪意の波、また中傷の波があれども、断じて屈するな!」とは、戸田先生の強い指導であった。
 「広宣流布」は、順風満帆、思いのままにいくと考えたら、間違いである。
 あらゆる大偉業もまた、同じ方程式である。
 戸田先生は、
 「偉大なる正義の人びとは、けちくさい、そして陰鬱な高慢ちきの中傷など、あざ笑え!
 狡賢いだけの愚か者どもには、糞でもひっかけてやれ!」と、笑いながら、指導しておられた。
 現実というものは、正と邪の闘争であり、正義の人びとの心の中に、ありとあらゆる魔物が侵略しようとする力学である。
 しかし、熱烈たる「信念」と「正義」と「忍耐」のある人の行動は、いかなる恐怖があろうと、嵐の戦慄さえも、みな、大勝利への大風と変える。
2  魔軍の彼らは、悲痛な夢を見ながら、滅亡の坂を転げ落ちていく。
 我らには、喜びの季節が巡り、自分自身がつかんだ幸福の秘宝を逃すことなく、堂々たる人生の勝利の花、勝利の美が、わが遊歩道に飾られていく。
 これが、生命と歴史の峻厳なる道理といってよい。
 彼らは、醜い姿で敗北しながら、必ず遁走する。
 我らはやがて、喜色満面の、殉教の不滅の栄誉に包まれ、三世十方の仏菩薩が守り讃え、おそらく涙を流しながら、「偉大なる天使よ!」と絶讃していくにちがいない。
 我らを苦しめる魔性の輩は、自分の身を自ら裂きちぎり、不運な哀れな屍となるだろう。
3  日蓮大聖人は、三十二歳の立宗から、五十三歳で身延に入山されるまでの二十一年間、「山に山をかさね波に波をたたむ」ように、連続する大迫害を乗り越えてこられた。これは、「開目抄」の一節である。
 確かに、肉体的にも、精神的にも、耐えがたい圧迫の連続であった。特に、
 「国主も讒言を収て流罪し頸にも及ばんずらん
 「讒言して流罪し死罪に行はる」等と仰せのように、悪人の「讒言」、つまり嘘の悪口によって流刑された佐渡の地では、命にも及ぶ、過酷な生活環境を強いられたのである。
 そのためであろうか、身延入山の当初から、大聖人の御体調は、必ずしも万全ではなく、一貫して「やせやまい」「衰病」「老病」に、悩まされ続けたと言われている。
 なかでも、建治三年(一二七七年)の十二月三十日には、「下痢(くだりはら)」「はらのけ」の病が起こった。
 五十六歳の御時である。
 翌年の建治四年(一二七八年)の六月のはじめには、その症状がさらに激しく悪化した。
 その時は、四条金吾の治療が効を奏した。
 大聖人は、「教主釈尊の入りかわり・まいらせて日蓮をたすけ給うか」と、弟子の金吾に、最大に感謝なされている。
 しかし、三年後の弘安四年(一二八一年)、六十歳の正月に再発し、その年の十一月末からは、食事がほとんど摂れないほどに悪化した。
 御入滅の年である、弘安五年(一二八二年)の正月は、少し持ち直されたようであるが、二月は、短い御手紙も、弟子に代筆させるような病状であられた。
 そのようななかで、熱原の法難を戦い抜いた、青年・南条時光が重病にかかった。
 二月二十八日には、この若き愛弟子に襲いかかった病魔、死魔を打ち払うべく、大聖人は渾身の書「法華証明抄」を認められ、日興上人を介して与えた。
 「鬼神らめ此の人をなやますは剣をさかさまに・のむか又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか」と、烈々たる気迫で悪鬼を叱りつけておられる。
 実に、大慈悲の賜物というしかない。
 この年は、九月の身延出山まで、大聖人は、一進一退の病症が続いたようであられる。
 門下に与えられた御自筆の御手紙で今に残っているものは、この「法華証明抄」と、短い数編しかない。
 大聖人のお体は、前年よりも、かなり衰弱されていたと、拝察されるのである。

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