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日蓮大聖人・池田大作

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不屈の心の三重 嵐を突き抜け 栄光の民衆詩を

2000.2.5 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  それは、四十一年前の一九五九年(昭和三十四年)九月二十六日のことであった。
 この夜、最大風速五〇メートル、また二五メートル以上の暴風圏は半径二五〇キロメートルに及ぶ超大型の台風が、恐ろしき牙をむいて日本を襲ったのである。ことに三重、愛知、岐阜の中部方面は、壊滅的な被害を受けた。
 その恐ろしき牙は、混沌の闇のなかを荒らし回った。まさに、地上の目に見えるものすべてを滅亡させていくかのように、猛り狂った一夜であった。
2  しかし、当時の学会は、戸田先生亡きあとの、いまだ不安定な時代であった。
 学会を守るべき立場にありながら、この台風のような破壊の魔力に縛られ、恐れ、怨嫉をいだく者や、翼を折られたように、使命を忘れた哀れな人間の姿も多くあった。
 私は、学会本部で、直ちに、各地の被災状況を調べ、その地へ、どんどん青年部の幹部らを派遣し、救援活動にあたるように指示した。
 そして十月三日に、二、三人の幹部とともに、名古屋へ急行した。さらに、そこで、三重の四日市方面の甚大な被害の模様も伺い、驚いた。
 しかし、木曽川、揖斐・長良川などの氾濫によって、濁流に飲まれた三重と愛知の間の交通は断絶し、とても名古屋から直接、入ることはできない状況であった。
 川のすぐ向こうにも、大切な、わが同志がたくさん待っている! そう思うと、居ても立ってもいられなかった。
 私は、大きく迂回し、関西を経由して、三重に入った。十月五日のことである。雨があがったばかりという天気であった。
 三重の中心者である、四日市の酒井昌一さんのお宅をまず訪ねた。
 同志は皆、あまりにも大きな衝撃と悲しみのゆえか、言葉もなく、涙もなく、深い疲労の色を浮かべていた。しかし、皆の目は、真剣であった。
3  私は、「大悪をこれば大善きたる」との御聖訓を拝しながら、強く、強く語った。
 「たとえ家が壊され、家財が流されても、『信心』さえ壊されなければ、必ず変毒為薬できます。『信心』さえしっかりしていれば、必ず立ち直ることができるのです」
 ――狂魔の嵐がいかに襲い来るとも、断じて負けるな! 必ず新たなる永遠の活力をもった無限の生命力で、勝利の黄金の城を築くことができる。負けるな、断じて負けるな!
 古き王座は崩れ果てても、苦悩の底より決然と踏み出して、たとえ小さくとも、新しき歓喜の王座をつくるのだ!
 このあと、私は、ともかく行けるところまで行こうと決め、酒井さんの案内で、特に被害の大きかった富田、富州原、川越、さらに、桑名へと進んでいった。その先は、荒々しき濁流である。
 台風の通過時間が、伊勢湾の満潮時と重なり、この沿岸部の被害は悲惨であった。
 道々、私は、何人もの同志に出会った。
 そのたびに、「立ち上がる情熱を! 断固たる新しき道を!」と訴え続けた。
 あの時、再起を誓い、真剣な決意に輝いた友の顔は、今も忘れることができない。
 しかし、当時は、学会として行き届いた救援活動も全くできず、尊きわが同志に辛い思いをさせてしまったことが、今なお、私の胸を苦しめる。生涯、この後悔は消えないであろう。
 酒井さんが初代支部長となって三重支部が結成されたのは、私の訪問から一年四カ月後の、二月十日のことであった。
 不屈の勇気の三重に、広宣流布の大旗が、天高く翻ったのである。
 私は、その報告を、東南アジアの地で聞いた。
 ――過ぎた日を思い出して、涙する人もいたかもしれない。過ぎた日を忘れて、仲良く抱き合っている壮年もいたにちがいない。
 他界した肉親との、耐え切れぬ別離の涙をこらえて、「お父さん、勝ったよ!」「お母さん、勝ったよ!」と叫ぶ、青年の姿もあったであろう。
 その皆様の健気な姿を思い、私は祝福の題目を送ったことが忘れられない。

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