Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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迎賓館の思い出(下) 友好の一歩を 必ず平和の大道へ

1999.11.18 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  わが師匠である戸田先生は、人間を決して地位や肩書で評価されなかった。
 その人が何をなしたか。何を理想として戦い、生きたのか。常にそこを見つめ、厳しく問われていた。よく歴史上の偉人論なども伺ったが、それはそれは深く、鋭かった。
 その先生が、「一度、会ってみたいな。会えば、すぐに話が通じるだろう」とおっしゃった世界的人物がいる。インドの哲人政治家、ネルー初代首相である。
 ネルーは、先生が亡くなる半年前(一九五七年十月)に国賓として来日している。
 東京での宿舎は、今の港区白金台にある旧・朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)であった。現在の迎賓館ができる前は、しばらくの間、この瀟洒な洋館が迎賓館として使われていたのである。
 そこは、戸田先生のご自宅からも近かった。身近にネルーの存在を感じられながら、先生は大いなる魂の対話を胸に描いておられたにちがいない。
2  私が、そのネルーの孫にあたるラジブ・ガンジー首相を、元赤坂の迎賓館に表敬したのは、一九八五年(昭和六十年)の十一月であった。
 当時、私は、病に倒れた直後であった。退院してはいたが、まだまだ、体力は戻っていなかった。
 しかし、お招きをいただいた時、「ネルー首相と会いたいな」と言われた恩師の心を、ぜひ実現したいと思った。また、仏教発祥の大恩ある国のリーダーに、民衆の一人として歓迎と感謝を伝えたかった。
 会見の場所は「朝日の間」。朝日を背にして、女神が香車(=香木でつくった車。美しくて立派な車にもいう)を走らせる天井絵から、この名があるそうだ。
 部屋に入ると、首相がにこやかに迎えてくださった。
 四十歳の若さで、母上のインディラ・ガンジー首相の後を継がれて約一年。天から遣わされたような、旭日に輝く貴公子であられた。
 釈尊の「慈悲」の精神などを通して、人類の平和を展望した語らいは、今も懐かしい。
 六年後(九一年)、インドに生命を捧げられたラジブ氏は、テロの犠牲になり、直接の出会いは一度きりであった。
 だが、ひとたび植えた苗木が大樹と伸びゆくごとく、ご家族やインドとの交流が大きく発展しているのが嬉しい。
3  ″世界史を変えた男″――ソ連のゴルバチョフ大統領も忘れられない。
 九一年(平成三年)の四月。
 会いたいと急な連絡があり、迎賓館を訪れた。会見は「東の間」。東玄関の階上に設けられた部屋である。
 ふらりと入ってきた大統領は、疲れきっておられた。
 分刻みのスケジュール。この日も、すぐあとに、第五回の首脳会談を控えておられた。
 「桜の日本へ、ようこそ!」
 私が申し上げると、「やっと会えました。ずっとお会いしたいと思っていました」と、満面に″ゴルビー・スマイル″を浮かべられた。
 帝政ロシアの時代も含めて、ソ連の国家元首の来日は、史上最初である。
 前年、私がモスクワでお会いした時、初めて「春の訪日」を明言された。その約束を果たされ、今、ここ日本におられる。幾多の困難を越えて――。
 私は、たとえ短い時間であっても、日本の一友人として、大統領を大歓迎したかった。
 私自身が約束していた長編詩(「誇り高き魂の詩」。本全集第41巻収録)を献呈し、「偉大なる『先駆の道』をゆく人には、苦難の山がある」「闇が深いほど夜明けは近い」等々の言葉を贈った。
 語り合ううちに、大統領の顔が紅潮し、あの生き生きとした目の輝きも戻ってきた。
 私は、いつしか大統領の両の腕を抱えて、励ましを伝えていたらしい。別れの握手も忘れて会見を終えたのであった。
 笑顔で「スパシーバ(ありがとう)、スパシーバ」と、幾度も繰り返された、大統領の声が耳に鮮やかに残った。
 ――ソ連が解体し、大統領をやめられたあとも、我らの友情は続いている。
 過日、ゴルバチョフ氏は、″ベルリンの壁″の崩壊十年を祝う記念式典に出席された。
 ライサ夫人の逝去の悲しみを越え、厳然と、新たな行動を開始しておられる雄姿に安心したものである。

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