Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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勝利の楽土・群馬 時代変革の機軸は「庶民の力」

1999.9.17 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  「私について来給え、あれらの者には
 勝手に話させておき給え、風が吹いても
 頂きのゆるがぬ堅い塔のように立つのだ」(野上素一訳、『古典世界文学』28所収、筑摩書房)
 これは、詩聖ダンテが叙事詩『神曲』のなかで、彼の師の言葉として語った、有名な一節である。
2  五十三年前(一九四六年)の九月、戸田先生は、遙かな幾山河を見つめて、戦後初の地方折伏に旅立たれた。
 栃木の那須方面と並び、その大闘争の一歩が印された、輝かしき広宣の舞台こそ、わが群馬の桐生であった。
 さらに、これ以後も、幾度となく、群馬に来られ、自ら開拓の尊き汗を流されたのである。
 「源遠ければ流長し」である。
 師の渾身の一念からほとばしった、広宣流布の源流から絶対に離れない。本源に脈打つ精神に直結し、同じ心で戦い続ける――すなわち、師弟不二である。
 そこに、あの滔々たる利根川のごとく、永遠なる創価の大河を開きゆく王道がある。
3  嬉しいことに、このほど、わが創価大学出身の友の尽力によって、牧口先生の群馬ご訪問の新事実が確認された。
 報告によると、先生は、学会創立の五年前にあたる、一九二五年(大正十四年)の十月十三日から十六日まで前橋に出張されている。
 これは、先生が校長を務めた白金小学校の「学校日誌」に記録されていたもので、おそらく、前橋で行われた関東連合教育会に出席するための訪問であったようである。
 さらに、この折、先生は″上毛三山″の一つ、榛名山の山腹にある伊香保まで足を運ばれた可能性も高いという。
 ――伊香保といえば、私にも懐かしい土地である。
 あれは、「大阪事件」で逮捕・勾留された私が、獅子となりて出獄した直後であったから、一九五七年(昭和三十二年)の七月下旬と記憶する。
 その時、私は、渋川・伊香保方面を訪れ、文京支部の班長さんのお宅の座談会に出席した。
 夏の夜の涼気に包まれ、土間まで人があふれる盛況のなか、広布の人生のロマンを語り合ったのであった。

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