Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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九州・福岡の「防塁跡」に立ちて 天も晴れ

1999.6.23 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  見よ! 私の眼差しの彼方は、見事な動く絵であった。
 砕ける波浪は、激しく明るかった。
 私は、遠くに玄界灘を望む、福岡の今津の浜に立った。
 一九七〇年(昭和四十五年)の十月十九日のことである。
 私は、非常に長い時間、夢を見るごとく、どよめく歴史の営みを、心の中で描いていた。
 そこには、古の武士たちの甲冑の音、刀剣の響き、陣馬の激しく燃えゆくような風の音が吹き過ぎていった。
2  ――約七百年前の文永十一年(一二七四年)の同じ日、十月十九日、海を越え、博多湾に侵入した元軍(蒙古軍)の一隊は、津波のごとく、ここ今津に上陸した。
 さらに翌二十日には、博多湾岸の最後の段階たる各所に攻め入り、日本の将兵たちとの激戦となった。有名な元寇の″文永の役″である。この時、わが身を盾として奮戦したのが、誇り高き″火の国の党″、勇敢なる九州の兵士たちであった。
 松の緑が影を落とす砂丘の上には、黒い玄武岩の石材を積み上げた石築地いしついじが、堅固なる姿を現していた。
 「防塁跡」である。
 鎌倉幕府は、建治二年(一二七六年)の三月、博多湾の防備のため、この防塁の築造を九州諸国に命じた。防塁の全長は、今津を西端として、博多湾東岸まで二十キロメートルに及ぶ。
 数年後の″弘安の役″(一二八一年)で、元軍が上陸しなかったのは、防塁の効果といわれている。
3  私は、太陽の空の下に、防塁跡を見つめた。
 「これだけの防塁を築き上げるという運命に身をゆだねた民衆の労苦は、大変なものがあっただろうな……」
 防塁は、孤独な無言の歌に満ちていた。無数の人民の、汗と犠牲で固めた″石城″であった。
 国家であれ、社会であれ、団体であれ、一番、最前線で苦労し、一番、陰で懸命に支えている人は、一体誰なのか。
 指導者は、その最後の一歩まで戦い抜く、無名の英雄の存在を、常に忘れてはならない。
 「民の憂いを 憂うる者は
  民も亦 其の憂いを憂う」
 これは、有名な中国の孟子の言葉である。

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