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日蓮大聖人・池田大作

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原点の誇り・栃木 前進! 師の拓いた「この道」を

1999.3.13 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

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1  「大胆で 勇気のある人は、人間の身に降りかかる あらゆることを、見くだし、物ともしない」(「最高の善と最大の悪について」渡辺義雄訳、『世界人生論全集』2所収、筑摩書房)
 これは、古代ローマの雄弁家で、世界的に名高いキケロの叫びである。
2  それは、敗戦の翌年――一九四六年(昭和二十一年)の九月のことである。
 出獄後の痩せ細った戸田先生は、六人の同志とともに、右にも、左にも、山々を眺めながら、栃木県那須郡の両郷村(当時)に向かわれた。
 この山間の村で、折伏に立ち上がった一家族を励まし、彼らが開催した「法華経大講演会」に出席するためである。
 狭い会場に八十人ほどの村人が集まったが、今日から見れば、あまりにもささやかな会合であった。しかし、先生の決意は、たとえ一人でも、法華経を説けばよいとの信念であられた。
 終了後、この、栃木方面の一粒種である、益子宅での座談会に出席される。ここもまた、少人数であった。
 牧口先生は、座談の名人であられた。
 戸田先生も、同じく座談の名人であられる。
 法華経の教義を、わかりやすく教え、人間の最高の価値ある道を教示し、そしてまた、人生の目的を、わかりやすく語り続けた。
 そこには、楽しみと真剣さと和気あいあいたる人間味が漂っていた。
 歓談が終わると、先生は、自ら指揮をとられ、「花が一夜に 散るごとく……」(「熱血の男」、奥野椰子夫作詞)の愛唱歌を、皆で歌われた。(JASRAC 0403011-401)
 これが、偽りと愚昧に酔い、濁った時代より、怒りの叫びを乗り越えて、新しき太陽が心地よく、荘厳に昇り始めた新時代の開幕である。
 つまり、戦後はじめての地方折伏の第一歩である。ここから、地方での最初の広宣流布の法戦となったことは、有名な事実である。
 新世紀をめざしての広宣流布の道は、栃木から始動されたといってよい。
 その栃木の光明と、平和の原点の意義は、学会の歴史と共に、永遠に刻まれゆくだろう。
3  一九五一年(昭和二十六年)の五月、わが師が、会長に就任された三週間後、私も満を持して、地方折伏に飛び出した。
 緑光る山河を思い、胸の躍る感慨ゆえか、出発の前夜には、日記にこう書いている。
 「……吾人の、地方闘争への初陣である。嬉しき哉」
 それが栃木方面であった。私も、恩師と同じく、民衆の大地・栃木から、新しき広宣の火蓋を切ったのである。この時、私は、今の小山市にある古刹・浄圓寺を訪ね、当時の住職に面談した。
 そのころ、戸田先生の英断により、宗教法人「創価学会」の設立の準備が進められていた。ところが、「出家が上・在家は下」という、抜き難い差別意識のゆえか、広布の時の来るを知らざるゆえか、宗門の僧侶のなかには、学会が独自の宗教法人を設立することに反対する輩が、あまりにも多くいた。
 私は、浄圓寺の住職が、ある反対派の高僧とつながりが深いことを聞いていた。その住職と、私は、創価学会の使命、戸田先生の決意、大聖人の大目的等を、静かに、また力強く、語りあっていった。
 縁深き、その僧は、明快に理解していったようだ。
 やがて、日顕宗が残酷な狂気と化したなかで、この浄圓寺(現在は成田宣道住職)の存在は、不思議な使命を帯びて、広布のために輝き残っていった。
 今、日寛上人が書写された、浄圓寺所蔵の御本尊が、御形木御本尊として、全世界の学会員に授与されている。

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