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日蓮大聖人・池田大作

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庶民の和楽と栄光の四国 正義の歌声よ 世界に轟け!

1999.3.5 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  ある日、戸田先生は、弟子たちとの懇談で言われた。
 「人生、四十代になってみないと、勝敗はわからないよ。
 特に女性はそうだ。
 否、人生の最終章の時に、どのような状態であったかで、一生の幸、不幸が決定される」
 さらに、「正しき仏法は、総仕上げの時に勝利できる法である。ゆえに、信仰は絶対に必要なのである」とは、牧口先生の言である。
2  その日、私は、関西から、空路、四国の徳島に入った。
 一九八一年(昭和五十六年)の晩秋である。
 空は晴れていたが、風は冷たかった。
 学会もまた、厳しき烈風に囲まれていた。
 毒蜘蛛のごとき、背信と忘恩の輩による学会破壊の謀略の網は、無数の会員を締め付け、苦悩の闇に陥れた。
 なかでも、四国は、陰険なる坊主が、邪悪な牙を剥き、衣の権威をカサに、魂の圧殺ともいうべき、弾圧を繰り返していたのである。
 私もまた、名誉会長に就任して二年半、わが同志のもとへ、まったく、自由に動くこともできない状況が続いていた。
 しかし! その大難のなかから、師子は立った。
 鉄の鎖を断ち切り、師子は、激流に抗して、極悪への反転攻勢の前進を、勇躍、開始したのだ。
3  思えば、その前年(一九八〇年=昭和五十五年)、香川、高知、愛媛、徳島の四県の千名の友が、私の待つ横浜の港へ、はるばると白亜の客船「さんふらわあ7」号で駆けつけてくださった。当時、″学会丸″に襲いかかる荒波をものともせず、波濤を越えて――彼らは、意気軒昂であった。
 ああ、この尊き同志よ!
 私は、桟橋に出て、一人、一人に合掌し、抱きかかえる思いで迎えた。
 広宣流布に励みゆく方々をば、「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」とは、「御義口伝」に仰せの「最上第一の相伝」である。
 皆が帰途についた時には、神奈川文化会館の窓べで、私たち夫婦は、船が見えなくなるまで、懐中電灯を振って見送りもした……。
 この勇敢なる弟子に、信じあえる同志に、私は、なんとしても応えねばならないと、涙に濡れた。ここから、私の四国への御恩返しの訪問の決意は、一日一日、限りなく深まっていった。

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