Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

文学の巨匠たち ″生死″を見つめ、命を完全燃焼

1998.11.25 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  三週前の随筆で、私が若き日にお会いした、作家や画家の方々について綴ったところ、その後、交流をもった方々のことを、ぜひ知りたいという、たくさんの要望をいただいた。
 そこで、三十代、四十代に出会った文人のなかで、特に印象に残っている方々について、少々、述べさせていただきたい。
 その前に、お会いしたいと思いながら、実現できなかった、吉川英治氏について触れておきたい。
 吉川氏は、私の会長就任二年後の、一九六二年(昭和三十七年)に逝去されている。
 私が行きつけの理髪店の、学会員である主人からお聞きした話では、氏は晩年、信濃町の慶応病院に入院中、その理髪店に来られていたという。
 学会に深い関心をもち、出版物も読み、友人からも学会の話を聞いておられたそうだ。
 逝去されて二十五年後の八七年(同六十二年)五月、私は、東京・青梅市の吉川英治記念館を訪問し、文子夫人と挨拶を交わす機会を得た。
 その時拝見した、氏の書かれた「我以外皆我師」という言葉が、強く心に残っている。そこに、「生涯求道」ともいうべき深き探求の心を感じとった。
 その感慨を胸に、氏を偲び、「富士のごとくに」と題する詩を作り、夫人にお贈りした。
2  有吉佐和子氏も、強い追求心をおもちであった。
 六五年(同四十年)ごろに知遇を得たが、アメリカで学会の会合にも参加され、民衆を超えた人間の絆に、感動したと話されていた。
 また、中国で、巴金ぱきん氏らをはじめ、最も著名な幾人かの文人との交流をもっておられた彼女は、学会と中国の橋渡しもしてくださった。
 体は、決して強くなかったようで、作品を書き上げるごとに倒れられたと伺った。
 だが、静養の間に、もう次の作品の構想を練り、一作、また一作と、全魂を注がれていった。
 雑誌で対談した折、「もうあと、(会長を)五十年はお務めにならなければ」と、言われていたことが忘れられない。
 ある時、″これからは、劇画の時代になるでしょう″と、二十冊ほどの劇画の本を贈ってくださった。そのなかに『あしたのジョー』(森高朝雄作・ちばてつや画)があった。
 ボクシングに青春をかけるジョーの、″燃え尽きて真っ白な灰になるまで戦う″という気迫が鮮烈であった。
 それが、彼女の生き方にも、つながっているように思えた。
 有吉氏は、五十三歳で逝去されるが、高齢化や公害など、社会問題をテーマにした作品に、意欲的に取り組まれている。
 おそらく、限られた人生の時間を意識されながら、その仕事に自らの使命を見いだし、全力投球されたのであろう。
 偉大な文人は、死と真正面から、向かい合っておられる。
 「批評は神様」と言われた小林秀雄氏は、「六十歳になった時から、死の準備をしていた」と述懐されていたという。
 私が、お会いしたのは、七一年(同四十六年)の春。小林氏は六十八歳であった。
 作家の里見とん氏、中村光夫氏とともに昼食をとりながらの歓談であった。
 天台の仏法にひかれ、「摩訶止観」も読まれていたようだ。
3  また、井上靖氏も、「死を見詰めることによって、初めて生を見詰めることができる」と述べておられた。
 氏とは、七五年(同五十年)四月から、一年間にわたって交わした書簡をまとめ、『四季の雁書がんしょ』(本全集第17巻収録)を発刊している。
 当時、井上氏は六十代の終わりである。暑い夏は、さぞお辛いのではと、私は心配した。
 ところが、その炎暑のころのお便りには、六十代になってから、年々、「烈しく照りつける太陽」に、心ひかれる思いが強まっているとあり、さらに、こう記されていた。
 「烈しく何事かを為そうとした気持ちだけが、生きたということの証しのようなものとして、過去に刻まれてあり、私の年齢になると、その部分だけが生き生きとしたもとして思い出されて参ります」

1
1